於愛は容姿ばかりでなく、性格も穏やかで誠実な人柄ゆえ家臣や侍女たちにも好かれていたようです。そんな於愛に、家康も信頼を寄せていました。
激しい気質と言われている築山殿とは正反対の性格だったようです。
さらに於愛は自身の目が悪かったこともあり、盲目の女性に強い同情を寄せ、そういった女性に対して手厚い保護を行っていました。のちに彼女が死去すると、大勢の盲目の女性が連日、寺門の前で彼女の後生を祈ったと伝えられています。
謎に包まれた於愛の死
於愛は1589年に駿府で、この世を去りました。享年は28歳とも38歳とも言われていますが、彼女の出生に関する正確な記録がないため、はっきりしません。いずれにしても家康の側室たちは長寿が多かった中、彼女の死は早いものでした。
その死因は、病死と言われていますが、不穏な説もあります。それは築山殿の侍女が於愛に毒を盛って殺したというものです。築山殿の死から、すでに10年が経っていることもあり、その可能性は低いと思われますが、そういう説が出てくる背景はあります。
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