慶応野球部「新旧2人の監督」が起こした地殻変動 「エンジョイ・ベースボール」に30年の試行錯誤
夏の甲子園大会で107年ぶりの優勝を遂げた慶応義塾高校。サラサラヘアや、監督を「さん」づけで呼ぶ自由な雰囲気などが注目されているが、実は「エンジョイ・ベースボール」を体現するまでには、30年以上に及ぶ道のりがあったことはあまり語られない。
1990年代、管理野球が全盛だった時代に産声を上げ、試行錯誤を重ねた延長線上に、自主性に基づいた今の慶応の「考える野球」がある。高校球界では当初、なかなか受け入れらなかったが、今年の甲子園決勝は同じく自主性を重んじる仙台育英との決勝戦となった。
ピンチで「前進守備」をしなかった理由
今大会で、慶応の野球を象徴する場面がある。広島の甲子園常連校である広陵との3回戦だ。私は間違いなく優勝への分水嶺だったと思う。
初回に2点を先制して3回にも1点を加えた慶応だが、広陵に3回と6回に1点ずつ返されて3―2で追い上げられていた。
7回裏、広陵は1死二、三塁のチャンスを迎える。1点差であれば内野陣は前進守備を敷いて、本塁での封殺を狙うのが定石だ。だが、慶応はこの場面で前進守備をしなかった。内野ゴロで1点を献上することを覚悟した、通常の守備位置だった。
次打者が放った打球はショートほぼ正面のゴロ。慶応の八木陽遊撃手は捕球するや、本塁への送球の素振りもみせず三塁へ送球し、二塁走者を挟殺してアウトにする。1点を許し同点になったが、一塁に送球していれば2死三塁とピンチは続いたはず。それを2死一塁に留めたわけだ。
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