認知症の兄と妹2人、仲良し3人に走った深い亀裂 「誰が面倒を見るか」に立ちはだかるお金の問題

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映司さんは「延命治療はしない」「最後まで妻と一緒に施設で過ごす」「がんの痛みは、施設でしっかりと緩和してほしい」「自分が亡くなったあと、妻はこうしてくれ」と、自分の意思と計画をしっかりと息子さんと私たちに伝えていました。

本人の意思が伝わっていない場合、家族間でもめたり、家族がなかなか決断できなかったりするものですが、映司さんの場合には自分の意思と計画がはっきりしていたため、残される息子さんも、迷う要素がなかったようです。

映司さんが最期を迎えるまでの物事の決断は、とてもスムーズに進みました。自分のことだけでなく、自分が亡き後の妻の身の振り方についてもしっかりと決断し、息子に託したうえでこの世を去った映司さんの最期は、見事だったと思います。

映司さんは最後まで、妻のことを思いやっていて、「僕が死んでも、死んだとは言わずに“買い物に行っている”と伝えてくれ」と話していました。

「亡くなる前」自分はどう過ごしたいか

最期が近づいたら、自分はどのように過ごしたいか──。多くの人が先延ばしにしてしまいがちなテーマですが、「こう過ごしたい」という意思を言葉で周囲に伝えることができていたら、本人にとっても幸せな最期となり、残される家族も安心して選択することができます。

前述のとおり、家族であっても個々の価値観というのは大きく違います。「何を大切に過ごしたいか」という点は、夫婦でも違えば、親子でも、兄弟同士でも違います。だからこそ、最期の過ごし方は、本人の意思で決められるのがベストなのです。

「死」がタブー視されがちな日本ですが、お墓や遺言など、自分が亡くなったあとのことは、終活ブームともあいまって、口に出して話す人が多くなったように感じます。

死後について話すことももちろん大切なことですが、その少し前の段階、つまり終末期の過ごし方についてもぜひ話し合ってほしいと思います。そしてさらに、終末期のもう少し前の段階で、自分や親が「もしも誰かの手を借りるようになったら、どう過ごしたいか」についても考えてほしいと思うのです。

人は産まれるときに誰かの手助けが必要であるように、死ぬときにも必ず誰かの手を借りることになります。「ピンピンコロリがいい」とはよく言われることですが、本当にピンピンコロリだとすれば、それは突然死で、実現しようとしてできるものではありません。

産まれるときがそうであるように、死ぬときも「自分だけ例外」ということはないのです。ですから、「もしも自分が余命3カ月と言われたら」という問いを、「まだ自分には早すぎる」と思わずに、ぜひ考えてみてください。

自分のことは、意外と自分でわからなかったりするものです。この問いを通じて考えてみることで、自分も知らなかった新たな自分の本心に気づくこともあるかもしれません。

例えば予測しない急な事態が起こったときに、自分のことはもちろん、大切な人がどうしたいかがわかっていると、選択する際の大きな助けになるでしょう。また、後から振り返ったときに「いい人生だったな」と思えるようにするためにも、「もしも」の話をなるべく早い段階からしておくことは大切だと思います。

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