検察による独自捜査の限界と特捜部の不要論 イトマン事件の捜査指揮官・土肥孝治氏逝く
捜査は、広島高検検事長を務めた住友銀行の顧問弁護士(故人)と同行融資3部が描いたシナリオに沿って進められた。私の目には、銀行をできるだけ傷つけずに、暴力団につらなるアングラ勢力だけを摘出することに注力しているように映った。
関西の検察幹部らは、住友グループの経営陣と「花月会」なる定期的な会合を持つなど以前から親密な関係にあった。
「銀行に強制捜査をかけなかったのは不満」
土肥氏死去の報を受けて、私はイトマン事件にも携わった旧知の特捜部長経験者を久しぶりに訪ねた。事件についての私の見立てを話すと、「少し違うのではないか」という。
「事件は土肥さんが検事正だったからできたのだろう。着手前は永田町や住友関係者から相当圧力があったはずだが、土肥さんが防波堤になった。銀行としては捜査そのものを避けたかった。それでも検察が着手の意思を固めたので、銀行中枢には手を伸ばさないという条件で全面協力するとの手打ちが上のほうであったのだと思う。現場の検事の間では、なぜ銀行にガサ(強制捜査)をかけないのかという不満はあった」
確かに1991年初めからマスコミの報道が次第に熱を帯びるなかで、多数の検事総長や高検検事長経験者ら大物ヤメ検が大阪地検に頻繁に出入りしていた。住友銀行、イトマンを始め関係企業や誰かしらの「代理人」だった。
これに対して大阪地検の特捜部長が1991年2月、記者会見で「いわゆるイトマン疑惑について関係者からの事情聴取を含めて資料収集をしている」との異例の宣言をした。
のちに土肥氏は「過熱する状況を鎮静化させるために特捜部長に言わせたが、結果として捜査開始宣言と受け取られ不本意だった」と語っている。一方で、住友銀行の全面協力を引き出す結果にもつながったと考えられる。
捜査の意義については、私と元特捜部長は意見が一致した。土肥氏も語っていた通り、それまで手付かずだった関西の闇経済の主要部分にメスを入れたということだ。
バブル経済に乗り、伊藤寿永光氏はイトマンだけではなく住銀の中枢にも食い込み、許永中氏は日韓をまたにかけてさまざまな事業を展開し、両国の有力政治家に近づいていた。「あそこで止めておかなかったら、手の付けられない存在になっていたかもしれない」という認識は共通する。
私が司法キャップになった時、大阪高検の検事長は故・吉永祐介氏だった。ロッキード事件で主任検事を務めるなど長く「特捜の顔」だった著名検事だ。現場を持つ検事正と違って中二階的な高検で吉永氏は時間を持て余していたのだろう、部屋ではよく話し相手になってくれた。
ここで退任とみられていたが、東京佐川急便事件で当時の金丸信・自民党副総裁を略式起訴とした検察への批判が高まったことを受け、世間を納得させる予想外の人事として東京高検検事長を経て検事総長に就任した。
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