「タワマンや偏差値」は規格化された幸せの象徴だ 中学受験×タワマン文学対談<前編>
窓際:記号化された大量生産品としての幸せだと思うんですよ。本当の“成功者”は田園調布とかの閑静な住宅街の一軒家や広尾などの低層マンションに住むはずです。でも、サラリーマンにはどんなに頑張っても手が届かないじゃないですか。
勉強を頑張って、いい大学に入って、いい会社に入って、世帯年収千数百万円で手に入る幸せのひとつが、規格化されたタワマンなのかなって。
おおた:なるほど。それは中学受験でひとが羨む“いい学校”に受かることも同じですね。
窓際:だからいらん嫉妬をしたり、階数でマウンティングとったり。実際、小説に書いているような露骨なことは起きてないと思うんですけど、心情としてはわかるから、タワマン文学が話題になるんだろうと思います。
タワマンの階数とか、偏差値って、数値化されているからわかりやすいんですよ。でも本当はそうではないじゃないですか。どこに住むかよりもどう暮らすかだし、どの学校に入るかよりもどう学ぶかだし。それを見失っている大人がたくさんいるので、それを逆手にとって描いてみました。
部下に対する感覚でわが子をマネジメント
窓際:おおたさんのノンフィクション『勇者たちの中学受験』では、何といっても第2章のハヤトくんの話が強烈ですね。あんなトップ校に受かっていても敗北感がある中学受験って何なんだろうという。子どもの成績や勉強をエクセルで管理するお父さんも出てきますよね。父親が子どもをコントロールしようとするのが、いかにも現代の中学受験の場景だなと思いました。
最近、ツイッターを見ていると、わが子へのサポートを、部下に対するマネジメントと勘違いしてるお父さんが増えているんですよ。適切な管理を施したら、いい成績がとれて、志望校に合格できるみたいなものをメソッド化して、マネジメントしてしまうお父さん。あれ、何なのかな?って。
おおた:私が取材している範囲だと、そういうタイプには地方出身のエリートが圧倒的に多い。体験として中学受験を知らないから、自分の無知が子どもにとっての不利益になったら申し訳ないという強迫観念が強くなって、やりすぎてしまうのでしょう。
選択肢が少ないぶん、実は地方の受験のほうが偏差値ヒエラルキーがはっきりしているし、そこを自らの努力で勝ち抜いてきた自負があるひとたちは、そのメンタリティーをわが子につい求めてしまうんです。15歳や18歳の受験と12歳の受験はまるで違うのに。