西洋の労働観は、プロテスタンティズムの倫理(カルヴァニズムの予定説)→「神の救済に与る者と滅びに至る者はあらかじめ決められている」→禁欲的労働(世俗内禁欲)によって自分は神に救われる人間であるという確信を持つことができる→禁欲的に働き富を得ることができれば、それ自体が神の意志に適っている証拠であり、神の救済の確信につながる、というロジックです。
つまり、「善行を働けば(因)、救われる(果)」という通常の因果論とは逆の、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果を逆転させたコペルニクス的転回と言うべき思考方法なのです。
「清貧の思想」を重んじた日本
これに対して、日本で長らく信じられてきた労働観は「清貧の思想」です。
バブル崩壊直後の1992年に評論家の中野孝次の『清貧の思想』がベストセラーになり、これが時代の言葉となりました。資本主義の精神とは逆に、所有に対する欲望を最小限に抑えれば、逆に心の豊かさが飛躍的に拡大するという発想です。
ここではバブル崩壊の反省から、光悦、西行、兼好、良寛らの生き方の中に、モノを放下し、風雅に心を遊ばせ、内面の価値を尊ぶ清貧の文化伝統を見出し、「貧しくても心は豊かである」という理解から、「貧しいことがその人の心の豊かさ、清らかさを証明している」という逆転の思考方法になっています。
このように、西洋の労働観が、「お金を稼ぐことが神の恩寵の証になる」というカルヴァニズムから来ているのに対して、バブル崩壊後の日本の労働観は、「貧乏であることが心の清らかさの証になる」という「清貧の思想」に基づいているとすれば、どちらが資本主義との相性が良いかは明らかです。
こうした西洋的な労働観から生まれた資本主義がもたらす人間疎外に立ち向かったのがマルクスです。『資本論』によって確立された経済学をマルクス経済学と言いますが、これは人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという労働価値説をベースにしています。
資本主義以前の職人たちは、自らの知識と経験をもとに労働の内容を決めて、自分たちで実行していました。これが、資本主義社会に移行する中で、人々は生産手段や生産能力を失い、他人の命令や監督に従うだけの存在になっていきます。 このように労働者が資本にからめとられてしまうことを、マルクスは「包摂」(subsumption)と呼びました。
この資本による支配は、私たちの内面にまで及んでいきます。貨幣や商品に振り回される生活を当然のこととして、それどころかむしろ望ましいこととして内面化していくようになります。これが「魂の包摂」です。
つまり、資本主義の価値観を意識のレベルにまで受け入れてしまい、その枠内で自分の利益や効用を積極的に最大化するようになっていくのです。
フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、『象徴の貧困』の中で、資本主義の高度化が行き着くところまで行くと、やがて資本主義の価値観を完全に内面化してしまい、自己を失った人間が出てくると言っています。
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