
青天の霹靂とは、まさにこのことだろう。
織田信長が明智光秀に討たれるという「本能寺の変」が起きたとき、徳川家康は堺の地にいた。信長から「京や堺のあたりを見物して回るとよい」と提案されて、長谷川秀一(竹丸)というお供までつけてもらったので、それに従ったのである。
「京都において御茶湯御遊覧等あるべし」
宇野主水(うの・もんど)は、本願寺の門主である顕如(けんにょ)に仕えた右筆で、『宇野主水日記』を残したことで知られる。「本能寺の変」の背景を調べるにあたって、欠かせない史料といえるだろう。
信長からすさまじい接待攻勢を受けていた
先の記述は『宇野主水日記』からのもので、5月27日と28日における、家康の動向を記したものだ。京都で茶の湯の接待を受けたことがわかる。
その後、29日の晩には堺で、宮内法印(松井友閑)の接待を受けた家康。6月1日にいたっては、堺の商人で茶人である今井宗久による朝の茶会が開かれてから、昼にはまた茶会、そして夜には宴会と、すさまじい接待攻勢を受けている。
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