「奨学金216万」父が余命宣告された高3女子の決断 「父は働けないどころか、もう長くはない」

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「大学では工学部に進みたかったんです。というのも、近所に有名エレクトロニクスメーカーの工場があり、小学生の頃にそこの工場見学で、当時電話機で使っていた『交換機』を作る大きな機械を見てたのですが、それ以来ずっとこの会社に入りたいと思っていました。

また、当時は工学部に在籍している女性も少なかったため、その優位性を生かせば好きな会社に就職できるとも思ったんです。そこで、高校に推薦してもらえる大学を探してもらい、都内の私立大学が受け入れてくれました」

父がいつ亡くなるかわからない状況で…

地元の、公立の女子校から、県外の私立大学の工学部へ。一見、順調そうに思える人生だが、病魔はすでに父の体を蝕んでいた。

こうして、唐澤さんは大学進学にあわせて、旧・日本育英会(現・日本学生支援機構)から奨学金を借りることになった。

「正直、父が元気だった頃は、奨学金を借りるなんて考えたこともありませんでした。当時は第二種奨学金(有利子)も存在していましたが、母に余計な心配をさせたくなかったので、第一種奨学金だけを借りました」

父がいつ亡くなるかわからない状況では、一人暮らしする余裕はなかった。幸い、神奈川に伯母が住んでいたので、そこの家に間借りさせてもらい、都心近くにある大学まで通学する日々が始まった。通学には片道1時間半かかったが、一人暮らしよりはお金を節約することができた。

「毎月、奨学金が4万8000円振り込まれたので、そのうちの3万円を伯母に家賃として渡していました。ただ、残ったお金では学費を払うことができなかったため、入学当初は母が貯金を取り崩して、年間100万円の学費、学年ごとに10万円はかかる教材費、そして1カ月1万円の定期代を払ってくれました」

そんな中、唐澤さんが大学1年生のときに父親が亡くなってしまう。不幸中の幸いと言うべきか、生前、父親は生命保険に入っており、2年生以降はそこから学費を出してもらえることになった。だが、それでも、家族の負担は、決して小さくなかった。

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