おなじみ「アメチャン」に隠された意外な歴史 パインとカンロの社史に描かれていること

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当初は割り箸を使って手作業で穴を空けていたそうですが、社員がけんしょう炎になったり、ほかのメーカーが業平製菓よりもきれいに穴のあいた製品を出してきたりしました。業平製菓では、自動穴あけ機を用いることにし、さらにその頃に開発されたパイナップルの香料を使うことにします。

『パインアメ物語』では「類似品が出回ったことは、パインアメを形においても味においても、向上させるきっかけになった」と記しています。

1952年には会社を移転しました。表門の横塀に「多品種の商品はできませんが、日本一のキャンディをつくりたい、と願っています」と書かれた看板を掲げます。これは宣伝であると同時に、自らに言い聞かせるためでもあったといいます。

また当時は、「パインアメ」と表示しただけのラベルを貼ったガラス瓶に入れて売っていましたが、工業デザイナーから「商品にもちゃんと着物を着せてあげんとあきません。消費者はまず商品の姿、形を見て価値判断します。せっかく苦労して中味が日本一になっても、見た目が裸のままでは、人には評価してもらえませんよ」と指摘され、商業デザインの大切さに気がつきます。このアドバイスを活かし、デザインにもこだわるようになり、ますます売り上げを伸ばしていきました。

しょうゆ風味のカンロ飴、苦難の歴史

次は、カンロ株式会社の『カンロ100年史』(2013年刊行)から。同社の前身は戦前から山口県でアメなどを製造していました。1950年に宮本製菓株式会社を設立し法人化します。しかし、なかなか順調には利益があがらず、斬新で商品力の高い製品の開発が急務となりました。ただ「アメのすべてを知り尽くしているだけに、アメの性質に逆らうよう着想には大きな抵抗があった」そうです。

宮本政一社長は「日本人であれば誰もが飛びつくような風味を持ったアメが出現すれば、たちまち他社製品を追い越して市場を独占する」と考えます。日本人が好む味とは、しょうゆ、適度な塩分などです。こうした考えは菓子業界に以前からありましたが、べとつきが増し保存性が悪化するなど多くの問題があり、具現化しようとする業者はいませんでした。同社の試作品第1号も、タバコのヤニが溶けたような色の濃さで、焦げているような味がし「まるで様にならないみじめなテスト結果だった」そうです。

ここから試行錯誤が始まりました。

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