何とか3カ月後、職場に復帰した。以前と異なる部署に配置転換となり、ヒラ社員に降格となった。与えられた現実を受け入れ、腐ることなく、目の前の仕事を着実にこなしていると、「元エリート」に再び光が当たり始めるようになる。40歳を超えたころ、上司に呼び出され、2度目の課長に挑戦するチャンスに恵まれた。
絶対に失敗できないと思い詰め、半年後
「1回くたばったので、何とかして這い上がりたかったんです。とにかく必死で働く意欲にあふれていました」と澤村。新たなポストを得て、捲土重来を目指していた。職場は、営業の販売促進などディーラーの基幹業務を担う看板部署。出世コースに位置付けられていた。澤村は、引き上げてくれた上司のためにも、数年前自分を追い込んだ周囲を見返すためにも、絶対に失敗できないと思い詰めていた。
半年後、またしても体が悲鳴を上げた。多忙で激務な職場は「上下の人間関係が十分に機能していた」。その真ん中に入った澤村は、いわば邪魔者扱いされた。澤村が何も知らないうちに、知らされないうちに物事が動いていく。下からも報告がなく、上からも説明がない。今は鳴りを潜めた社外接待が当時は頻繁に行われており、幹部候補の澤村は役員のカバン持ちで帯同することも多かった。かたや、同じ職場の社員は夜遅くまで会社で働いていた。「あいつ、遊んでばかりいるよな」。そんな陰口をたたかれるようになった。
「最初に課長になったときと違って、部下は年下ばかりでした。年上上司と、彼らとの間で、もう少しうまく立ち居振る舞えたらよかったんですが、そこまで器用じゃなかったんですよね。周りは全員敵としか思えないようになりました。今思えば、被害者意識の中にいました。そして、朝、ベッドから出られなくなりました」
起床すると、まずアルコールに手が届く。一人暮らしの部屋には、飲みかけのビール缶やウイスキーボトルが散乱した。ふとしたときに、会社のことを考え始めると、体の震えが止まらなくなった。
外出するのは近所のコンビニだけ。同じスウェットを5日間着続け、ひげは生やしっぱなし。酒代に加えて、発散するための風俗代がかさみ、貯金は右肩下がりで減っていく。朝と昼と夜の区別が付かなくなり、つねに酩酊し、突然自分に怒り始めたり、泣き始めたり……。
何もかも、収拾が付かなくなった。前回もかかった医師の診断は適応障害。今度は重症との判断のもと、許可するまでの出社を禁じられたうえ、療養期間は少なくとも半年かかると言われた。2週間に1度、面談のために必ず来院することも命じられた。
黙って話を聞き続けてくれた医師に対し「当初は、周りがすべて悪いだのグダグダ言ってましたが、通い続けるうちに、自分が勝手に暴走したのではないかと思うようになりました」(澤村)。
自分にも非があったのではないか、と冷静に考えられるようになった。通院から約4カ月経つと、会社に復帰するための術を考え始められるぐらいにまで回復した。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら