すべてが順調だった。倍率数十倍、慶應の付属中に合格し、そのままストレートで大学を卒業した。周囲の友人は金融や商社に目が向く中、「ノルマを達成すれば給料が上がる成果主義に憧れて」、大手自動車メーカーの販売会社にトップ内定で就職した。
トップ内定で就職、メーカー本社に出向、34歳で課長に
団塊ジュニア世代で最も人数が多い、1973年生まれの澤村昭吾(49歳、仮名)。110人を超える営業職の大卒同期の中でも、自他ともに認めるエリート、幹部候補生として行く末を嘱望されてきた。配属された営業所長から、時には顧客名簿の片っ端から200件電話するまで帰宅しないよう命じられたこともあった。
電話ローラー作戦に気乗りがせず、やりたくないと思ったことは何度もあった。ただ、会社を辞めようと思ったことはなかった。「みんなやってるんだから、しょうがない」。就職して数年で転職する若手社員が目立つ現在とは、時代背景が異なっていた。定年まで働くつもりで入社するのは、ごく普通で自然だった。
入社6年目の28歳で、これまで例がなかったメーカー本社に出向。2年間の出向中は、本社仕込みの経営イロハを学び、帝王学を吸収した。
出向から戻って数年後、会社史上最年少となる34歳で課長に就任。「超特急コースに乗ったノリで、いっちょ暴れ回ってやるか」と息巻いていた。部下は全員が年上だったが、いっさい気にならなかった。課長を1つの踏み台として、出世階段を爆速で駆け上がるはずだった。今の俺なら、何でもできると思っていた。夢の将来が訪れることを確信していた。
しかし、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。
「激しくぶっ壊れました。それも、一度じゃなく二度。心が完全にパンクしました」
澤村は、当時の状況を努めて冷静に振り返る。心の病である適応障害に2回見舞われ、長期の休養を余儀なくされた。50歳を目前にした今、再び管理職に返り咲いたものの、2回の不調は想定外の経験となった。
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