さて問題は、本当に信長が佐久間信盛の讒言を信じて信元の処断を命じたかです。また家康は、なぜ信元を救う努力をせず命じられるまま信元を斬ったのでしょうか。
信元は、今川義元が全盛期のころ圧倒的に不利だった信長の味方をした数少ない武将です。その観察眼は鋭く、とても落ち目の勝頼に味方するなど考えられません。そのことは、信長自身もよくわかっていたはずです。
信長は有用と思った人間には寛大で、多少の裏切りは許す度量がありました。松永久秀などは2度の裏切りを許されていますし、このあと裏切りを起こす荒木村重にも何度も考え直すよう説得しています。
有能すぎる信元を信長と家康は警戒していた?
しかし信元に対しては問答無用でした。最近、信元の処断に関する新しい説が出ています。それは信元の勢力拡大に危機感を抱いた信長と、徳川家への影響の大きさに警戒した家康が、協議のうえ謀殺したというものです。これを裏づける証拠はありませんが、織田・徳川両家もこの時期大きな転換期を迎えており、その可能性も排除できないと思います。
ただ讒言を行った佐久間信盛は、信元の領土を受け継ぎ、さらには信元と近い久松信俊(出奔した勝俊の長男)に言い掛かりをつけ自害に追い込んだり、久松家に攻め込み信俊の子どもを殺したり、なかなか非道な仕打ちを行ったところをみると、信盛が信元を追い落とそうと画策したことは間違いなさそうです。信長がその信盛の下心を見抜きつつ信元の処断を決定し、この判断に家康が乗じたのであれば恐ろしいと言わざるを得ません。
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