東アジアではなぜ「身内びいき」がはびこるのか 「集団主義」と「普遍主義」における社会的な輪

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近くに立っている人(家族や親友)はあなたが道徳的義務を最も大きく感じる人物であり、その人物に対して誰よりも気をつかう。これは意外ではない。協力や相互依存の関係は血縁者どうしや長く続く関係において強くなる。

私たちは社会的な輪のなかにいるこうした主要メンバーの幸福や成功により強く関与するから、私たちの向社会的な努力が彼らに向けられる傾向にあるのは納得できる。

しかし、この輪のなかには、少し離れたところにほかの人々も存在する。こうした遠い関係は家族や友人と同等には扱われないものの、彼らの命運も私たちに関係するのは確かであり、状況によってはある程度の支援や信頼を向けるべき対象だ。

人々の世界に対する見方で最大の違い(お互いに対する見解の不一致を最も大きくする要因)は、最も身近にいる最愛の人々との関係をほかの人との関係よりどのぐらい優先させるべきかを決める場面で生じる。

「おおまかな傾向」を知ることの大切さ

話をはっきりさせるために、ここでは一般的な話をする。

しかし、これは決して、私たちが政治的な傾向、あるいは出身地や居住地にもとづいて人々を「道徳的に狭量」と「道徳的に広量」に分類できると主張しているわけではないので、誤解しないでほしい。

たとえば、男性のほうが女性よりも平均身長が高いのはわかっていても、身長からその人物の性別を判断する賭けに全財産をつぎ込むことはしないだろう。

逆もまた同じで、ある人物が男性か女性かをわかっていても身長を正確に予測することはできない。

これから述べる傾向を解釈するときにも、同じように考えてほしい。それは大まかな傾向であり、特定の個人について何かを主張するときに用いてはならない。

とはいえ、そうした大まかな傾向は、私たちが暮らす社会の機能や構造、そして社会のなかで形成する関係の種類に実際に影響を及ぼしている。

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