村上春樹新作「文芸のプロ」が読んだ驚く深い感想 『街とその不確かな壁』は"期待通りの傑作"か

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『羊をめぐる冒険』の昔から、村上春樹的世界の主人公たちは、その「もう一つの世界」で、たとえば「鼠」の亡霊に出会い、首尾よく現実に復帰するといった現実と非現実の往還を反復してきた。

あるいは「村上春樹『騎士団長殺し』は期待通りの傑作だ」でも触れたように、『騎士団長殺し』の主人公にとっての「穴」(春樹ワールドのキーワードのひとつ)は、「現実」と「非現実」の二つの世界の「継ぎ目」であると同時に「裂け目」でもあった。 

村上春樹的世界の主人公は、この「二つの世界」を往還できる、例外的な異能者なのだ。「不確かな壁」を乗り越えるとは、ジャンプではない「通り抜け」のことであり、実際そこを通過した少年は、その不在を周囲から「神隠し」のように思われるしかなかった。

純文学にして高度のエンターテインメント

では、村上春樹が描くのはリアリズムを真っ向から否定する小説なのだろうか。

そうとは言えないところに、純文学にして高度のエンターテインメントという、この作家の持続的な人気を支えてきた秘密がある。

ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を引き合いに、新作「第二部」で作中の女性は、「マジック・リアリズム」などというマルケスにまつわる安易な標語を打ち消すように、こう語っていたではないか。

「彼の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」
「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
(新作『街とその不確かな壁』新潮社、576ページ)


 それを受けて、主人公はこうフォローするのだ。

「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア=マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」
(新作『街とその不確かな壁』新潮社、577ページ)


『街とその不確かな壁』は、三度、私たちの前にグロテスクに立ち現れてきた、不確かではあるが、決して消し去ることのできない、リアルな「仮象」である。

つまりそこでの「幽霊」(「第二部」に登場する「子易さん」)の正体は、ただの枯れススキなどではなく、もっとおぞましく、グロテスクな何ものかであるということだ。

もうこうなったら、私たちもまた、あの少年に与えられたミッションに倣って、「その街に行かなくてはならない」だろう。

40年にわたる村上春樹の「反復脅迫」(「抑圧)されたものの「回帰」としての)の謎を読み解くために。おそらくそれは、愛着と依存の対象である「彼女」を失った「僕」の、精神の空白を埋めるための、長い時間をかけた「喪の作業」(フロイト)だったのだ。

最後に村上春樹の「若さ」について、触れておかなければなるまい。

彼はすでに、谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』を書いた、70代の半ばにさしかかっているのだ。これは、実に驚くべきことではないだろうか。 

高澤 秀次 文芸評論家

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たかざわ しゅうじ / Shuji Takazawa

1952年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒、評論家。民俗、芸能史から文学、思想史まで幅広いジャンルに意欲的に取り組み、特に作家や思想家の評伝を書かせては鋭い切れ味を発揮する。

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