村上春樹新作「文芸のプロ」が読んだ驚く深い感想 『街とその不確かな壁』は"期待通りの傑作"か
いや、そんな詮索は、実は無用なのだ。それよりも、ここで確認しなければならないのは、「世界の終り」が象徴するような「春樹ワールドの物語的な『終焉』についての黙示録的な仕組み」についてである。
新約聖書「ヨハネの黙示録」にあるように、それは、この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来を直接告知するのではなく、「黙示」する預言的文書のことだ。
村上春樹の物語作者としての特徴は、「終末論的な世界」を、宗教的にではなく、リーダブルな俗世界の「物語」に落とし込む技術において卓抜であることだ。
そして、以前の記事「村上春樹『騎士団長殺し』は期待通りの傑作だ」で触れた「喪失―探索―発見―再喪失」という物語構造は、さらにその「黙示録」的な神話構造に裏打ちされていたことを、今回の新作は想起させる。
旧作「街と、その不確かな壁」に、「古い夢に手を触れることができるのは予言者に限られている」という一行があったことは、重要な意味を持っている。「僕」も新作での「少年」もそうした異能者のひとりだったのだ。
村上春樹に見る「黙示録的世界」への嗜好
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には、脳の一部に「装置」を仕掛けられた暗号解読を行う「計算士」の「私」が登場するが、その異能はサイボーグ的な人工頭脳による「黙示」(=「暗号」)解読に費やされる。
F・コッポラの『地獄の黙示録』(Apocalypse Now)は、コンラッドの小説『闇の奥』を踏まえているが、他にフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』も典型的な黙示文学である。
大江健三郎の愛読書だった本作の主人公・トムは、真夜中に古時計が13も時を打つのを聞き、昼間はなかった庭園に誘い出されるのだが、村上春樹の新作に出てくる、「街」にそびえ立つ針のない時計(四季の移ろいはあっても時間の蓄積のない世界の象徴)は、作者の黙示録的世界への嗜好を明確に表しているだろう。
本題から逸れるが、かつてドストエフスキーの『悪霊』に、「黙示文学的要素」を見抜いたのは、山本七平であった。村上春樹に、ロシア的な風土から根こそぎにされた孤独な「悪霊」たちを、自らの文学風土に召喚したらどうなるだろうという着想がなかったとは思われない。
山本はこの作品の主人公は、本来「悪霊」そのものなのだが、近代小説という装いのために、それが人間の姿をして飛び出したのだと語る。「スタヴローギンの『被いを取る(アポ・カリユプシス)』と、そこに悪霊が見える」(『小林秀雄の流儀』)という仕掛けである。
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