(第8回)阿久悠・最後のヒット曲『時代遅れ』の“読み違い"
●80年代=クリエーター苦難の時代
1980年代というのは、あらゆるジャンルのクリエーターにとって、受難の時代だった。
国民生活は安定し、一億総中流ムードが広がるなか、日本は達成された豊かさを持て余したまま、次にどんな目標に向けて舵(かじ)を切ったらよいか、指針を見失っていたからだ。
そうなると当然、一般生活者のニーズは見え難くもなり、読み難くもなる。
真摯なクリエーターほど、誰に向けて、何を創造すればよいのか、深刻に悩まざるをえない。
市場経済も、様変わりしつつあった。
ポスト大衆消費社会のキーワードとして、「大衆」に代わる「分衆」、「ハードウェーブ」に代わる「ソフトウェーブ」が、新たなマーケティングの戦略テーマになり、商品の「差異化」が叫ばれだした。
そうこうするうちに、目標を見失ったこの国に、バブル経済の旋風が吹き荒れる。
国民はどこに向かって走っていくのかもわからぬまま、闇雲に暴走を開始した。根拠のない自信に酔い、舞い上がるという、始末の悪い自家中毒症状を起こしたのだ。
政府は地価高騰を放任し、バブル崩壊後の収集のつかない不良債権の拡大に打つ手もなかった。
●創作のエネルギーは「詞」から「小説」に
阿久悠はこうした80年代の日本に、憎悪と怒りを顕(あら)わにしていた。
それが創作のエネルギーになったかどうかは別にして、40代に入った阿久悠は、この頃からより多くの時間を、小説に費やすようになる。
そこで特徴的なのは、映画化された『瀬戸内少年野球団』(原作は79年刊)を皮切りに、以後80年代に入ってからの彼が、自伝的に「過去」を語りはじめたこと。もうひとつは、「家族」をテーマにした小説(『家族の神話』『家族の晩餐』)にも手を染めていることである。
この二つの流れは、80年代の終わりに出た傑作、『飢餓旅行』で見事に統一される。
だがそれは、作詞家としての彼が、ピンク・レディーや沢田研二に託して、歌による「テーマパーク」の創造や、純粋な「虚構の世界」の構築に熱中していた70年代後半とは、およそ別の方向に動きだしたことを意味していた。
阿久悠の語る「全部本心」で「全部架空」という点では、詞も小説も本質的に変わりはない。ただし、「現実風リアリティを備えるが、蜃気楼みたいに地平線から少し浮いている」(『「企み」の仕事術』)という、虚構の世界の構成が、歌詞と、散文による小説とではまるで違うのだ。
しかも彼は、自伝的「過去」と「家族」という、最も歌にしにくいものに立ち向かっていたのだ。