(第8回)阿久悠・最後のヒット曲『時代遅れ』の“読み違い"
●最後のヒット曲は『時代おくれ』(86年)か?
阿久悠はそれでも、作詞に見切りをつけたわけではなかった。
しかし、昭和から平成の世に移り変わった90年代に入ると、阿久悠の作詞家としてのパワーは、目に見えて衰えていく。
作詞目録によると、90年の作品がわずか3曲、翌91年には八代亜紀の『カクテル』1曲のみとなっている。
こうした作詞意欲の衰えと並行するかのように、90年代に入ってからの彼は、昭和・戦後歌謡の総括を試みるようになる。
岩波新書の『愛すべき名歌たち-私的歌謡曲史』(99年)はその集大成だった。
作詞活動30年の業績により、菊池寛賞を受賞したのが97年。同じ年に、14枚組のCD全集『移りゆく時代 唇に詩(阿久悠大全集)』が発売される。また99年には、紫綬褒章を受章。
阿久悠は一人の作詞家というより、「知識人」の神話が解体したポスト戦後を担う、代表的な日本の「文化人」に登りつめた感さえあった。
多少の主観を交えて言えば、作詞家・阿久悠にとっての最後のヒット曲を、私は河島英五(故人)の『時代おくれ』(86年)だと思っている。
ここでも彼は、80年代の賑わいから遠く離れて、あえてバブル以前の時代=「過去」へと目を向けようとしていた。ただし、それは後ろ向きの姿勢なのではなく、「実は時代の先を行っていた」のだと、阿久悠は強気に語っている。
「時代はバブル景気に浮かれ、誰もが自信満々で闊歩していた頃だった。日本が世界一の金持ちということを信じて疑わなかった。それなのに、なぜかそういう人の姿も国の有り様もどこか似合わない感じがしてならなかった。/こうした時代背景から人は新しいものやおもしろいもの、贅沢なものを狂ったように追い求めていた。しかし、そんな時代の空気に疑問を持つ男もいるのではないか」(『「企み」の仕事術』)
「過去」へは、あくまで作詞家の視点である。
「時代おくれ」を覚悟で、浮き足だった時代から半歩退いて、体勢を立て直してみる。これもまた、男のやせ我慢のダンディズムには違いない。
だが時代は、沢田研二のパフォーマンスに阿久悠が、やせ我慢の美意識を託した『勝手にしやがれ』の時点から、確実に10年先に進んでいたのだ。
阿久悠は、沢田研二と河島英五は、個性もスタイルも歌もまったく違うが、「みっともなさの中に背中合わせで隠れているかっこよさを上手く体現できるところ」が、ただ一点共通していると語る。「かっこよさとみっともなさは表裏一体」(同前)なのであってみればだ。