金哲彦氏「20代の挫折で鬱状態」乗り越えられた訳 プロランニングコーチが語る「心の病と走る事」

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その結果は……途中棄権です。

これ以上ない最悪な結果でした。合宿中に痛めた傷がレース中に爆発し、ふくらはぎの筋断裂を起こしてしまったのです。足を引きずりながら前進する選手を見かねた役員から制止され、そのまま担架で病院に運ばれました。大声で嗚咽しながら。

松葉杖がとれるまで2カ月かかりました。

ふくらはぎの痛みより、応援してくれた周囲の期待を裏切ったことへの申し訳なさでいっぱいでした。悔やんでも悔やみきれない、その思いこそが、心の傷だったのです

そして8月、途中棄権の傷心に追い討ちをかける悲劇が起きました。大学時代に一緒に箱根駅伝を走り、心から尊敬していた先輩2人が合宿中の交通事故で同時に亡くなったのです(この事故では5名の死者が出ました)。

心に空いた穴が広がっていく

お棺に入った亡骸1人ひとりと対面し、手を合わせました。火葬の後、私と同じ20代の志半ばで逝ってしまった先輩方の骨を拾いながら、むせび泣きました。泣き疲れて涙が枯れる頃、心に空いた穴が徐々に広がっていることを自覚しました。火葬場から出ると空は青く、まだ汗ばむ夏でした。

ふくらはぎの故障は秋になっても回復せず、ただただ強烈な自己嫌悪にさいなまれました。

スポーツ選手の役割は、努力する姿と結果を出すことで応援してくれる人たちに夢や勇気を与えることです。次のレースの目標が立てられない自分は、まったく社会の役に立っていない、そんなふうに思いました。

そんな地を這いずるような毎日に突然起きた体の変調だったのです。

うつ状態になってからは、ただ無気力なだけで、むしろ感情の起伏はなくなりました。つらいことに耐えられなくなった脳が思考をストップさせ、体の動きも止めてしまったのでしょう。

その“うつ”体験から30年以上が経過しました。いまだに精神科を受診した経験はなく、そのときの状態が重度だったのか軽度だったのかはわかりません。しかし、その回復する過程で、マラソンランナーとして人生とどう向き合い、切り開くか、人が走る意味や走る価値を掘り下げていく、1つのきっかけになったことは間違いありません。

“うつ”状態の回復過程で支えとなったのは、「走ることで失った自信は、走ることでしか取り戻せない」というある人の言葉でした。

思うように走れない自信喪失は、その頃の私にとってはアイデンティティーの喪失です。20代半ばのマラソンランナーにとって、走る以外に人生の目標は存在せず、レースで思う存分、力を発揮できてのみ得られる、生きている実感でした。走ること以外で自分を取り戻すことはできなかったのです。

走れない喪失感は、走れるようになれば取り戻せますが、交通事故で失われてしまった先輩たちの命を取り戻すことはできません。

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