「脱サラしてプロ棋士に」"非エリート"が叶えた夢 小山怜央「震災を乗り越え、20年挑戦し続けた」
今年4月1日付で、将棋界に異色の新人が誕生する。小山怜央、29歳。棋士養成機関である奨励会を経ずにプロデビューする、戦後初の棋士だ。
地元は岩手県、東日本大震災では津波被害に遭い、家を失った。それでも好きな将棋への思いを絶やすことはなかった。プロまでの道のりは決して平坦ではなく、一度は夢破れサラリーマンの道を選ぶ。しかし、27歳で会社を辞めて、崖っぷちからもう一度夢に挑んだ。そんな彼の物語が、大きく動き始める。(文中、敬称略)
避難所の中で将棋を指していた兄弟
12年前、岩手県釜石市――。
避難先の体育館に入っていくと、むせるようなにおいが鼻をついた。街全体を覆う海水とヘドロの入り混じった臭気が、建物の中にも満ちていた。空気は砂埃を含んでざらつき、マスクなしでは息をするのもつらい。そこに300人以上の人たちが着のみ着のままで身を寄せ合っていた。あの日、東日本大震災で釜石は大きな被害を受けた。
小山敏昭(当時48歳)が妻と2人の息子を探して釜石高校の体育館にたどり着いたのは、震災から3日目の夜だった。照明はなく、館内に置かれた10個ほどの石油ストーブの火が赤暗く周囲を照らす。釜石高校には長男の怜央が通っている。学校は海から離れているため津波を免れ、避難所となっていた。
敏昭は仕事先の大槌町で被災した。自衛隊が瓦礫を避けてくれて、大槌町を出られたのは3日目の朝。その間はほとんど眠っていなかった。残されたJR山田線(現三陸鉄道リアス線)の線路の上を歩き、釜石市へと向かう。建物のほとんどが失われ、数キロ先までもが見渡せた。あるはずの自宅の場所には、何も残っていなかった。
携帯電話は持っていたが、まったくつながらない。十数カ所の避難所を訪ね歩くも、妻や子どもたちの姿はなかった。途中で自分に捜索願いが出されていることを知り、家族からであればどこかに無事でいるのだろうと思った。
釜石高校の体育館で、敏昭は妻と再会を果たす。妻から「大槌町は全滅だって聞いていたから、お父さんはもうダメかと思っていた」と言われる。互いの無事を確認しあったときは、不思議なほど冷静だった。喪失感や悲しみが襲ってきたのは、このときから数日経ってからだ。
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