「川端康成へ」というタイトルを冠する文章で、川端康成のことを「刺す」とまで書いてしまった太宰治。彼は当時26歳だった。若さゆえの暴走かと思いきや、立派な理由があった。それは「川端康成、お前が俺の作品を芥川賞から落としたんだろう!」という怒りによるものだった。
現代からさかのぼること90年前。1935年、記念すべき芥川賞の第1回で、候補作の1つだった太宰治の小説「逆行」は受賞を逃した。ちなみにこのときの受賞作は、石川達三の「蒼氓」。ぶっちゃけ、太宰治の小説のほうが面白い……というのは現代の私が読んだ感想である。
そして太宰治自身もそう思ったらしい。「俺の作品が落ちるのはおかしいだろ」と言ったかどうかは定かではないが、この結果について太宰治はこう書いている。
芥川龍之介のことが好きすぎる太宰治
菊池寛氏とは、芥川賞の創設者である。つまりは、「俺の作品を落として、石川の作品を受賞させたことについて、菊池のヤロウは『いやあ、無難な作品に決まってよかったですねえ』と今ごろ額の汗をぬぐいながら微笑んでるんだろ、いやーそりゃ本当によかったね! あんな地味な作品に第1回を受賞させやがって! 芥川先生は泣いてるでしょうけど、お気の毒に」と公衆の面前で述べているわけである。
ちなみに太宰治は芥川龍之介のことが好きすぎて、自分のノートに「芥川龍之介」という名前をひたすら書き、似顔絵まで書いていた過去を持つ男である。それを知って読むと「芥川龍之介を少しかわいそうに思ったが、なに、これも「世間」だ」という言葉の重みも違う。
なんせこの文面、堂々と雑誌に載せているのである。まだデビュー作『晩年』も書いていないころ、26歳で4度の自殺未遂を繰り返していたころの太宰だ。すごい自信、すごい自己肯定感、すごい根性。現代だったら炎上モノではあるが……。
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