「偏差値30台」から医師を目指した意外なきっかけ アジアで医療活動する吉岡秀人医師の「原点」

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僕は予備校へ入るのもギリギリで、予備校の試験、5回落ちまして。最後の試験が3月30日で、これで受かったんですよ。ようやく4月の初めの入学に間に合ったぐらいのレベルだったんです。僕が予備校に受かった時、同級生たちから「きっとお前の合格点は、1回目から5回目までの合計点だ」って言われたぐらい、勉強してなかったんですよ。

1浪目の途中、ある時、友だちの家へ遊びに行ったんですね。その彼が頭よかったんです。自分は京都大学へ行くと言っていて。僕は勉強全然しないから、もちろん文系ですよ。理科のことなんかまったくわからないし、数学も全然わかんないから。

その彼の家で受験生用の偏差値表みたいなのを、たまたまパラパラ見ていて。彼は医学部のところにピピッと印つけてたんですよね。そこをパタッと開いた時に、「俺でも行けるかもしれない」「俺、医学部行こうかな」って思ったんですよ。いや、本当に見た瞬間にですよ。

うちの親はね、浪人すると、ちょっと精神的におかしくなる子がいるって、いろんなところから吹き込まれてたんで、僕が「医学部へ行く」って言ったらですね、「とうとうきた」と思ったんでしょうね。

友だち2人呼んでお金渡して、「息子がちょっとおかしくなった。これでごはん食べに連れていって、説得してくれ」と。僕は友だち2人に中華料理屋に連れていかれて、2時間ほどごはん食べながら説教されたんです。

でも僕は意思がかたくて。まあ、駆け落ちするカップルみたいなもんですね。追い込まれるとますます頑なになるっていうやつです。偏差値表のページめくった瞬間の、「医学部行きたい」っていうより「医学部へ行ける」って思った感覚っていうのは、とても不思議な感覚ですね。今でも、なぜ思ったかわからない。

でも、そう思った時、自分の中で、子どもの時からの、さっき言ったような情勢のこととか、社会のいろんな難しい問題とか、自分の境遇とかがスパッと重なったんです。「医者になれば、そういう人たちのために働ける」と思ったんですよ。

当時、インターネットも何もないでしょ。世界中で、どこで誰が何をしてるかもまったくわからなかったんですよ。だけど医者になれば、できるじゃないですか。たった一人で出かけていっても。だから、僕の中で一直線につながったんだと思うんですね。

医学部へ行く決断と「感性の声」

そして医学部へ行くっていうふうに決断したんですけど、なんせ一番苦労したのは机に座れなかったこと。子どもの時からADHDって言われてて。小学校の時、母親とか父親が参観日に来ると、「お前はなんでいつも動いてるんだ」とか「なんで机をガタガタさせてるんだ」とかって怒られて。

当時ね、そういう概念が日本にはなかったから、怒られ続けた子ども時代だったんですね。小学校の通信簿には必ず「落ち着きがない」って書かれてたんですよね。

ようやく座れるようになったのが、1浪目の冬ぐらいだったんですね。医学部行くっていっても、まあ、もちろん全然だめですよね。で、2浪するわけです。今度は4回ぐらいで予備校の理系の学科に通りました。

最初の模擬試験は、今でも覚えてるんですけど、英語と数学と国語だけだったんですよ。これが偏差値33、35、38。3つとも30台。そこからのスタートですね。

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