好き嫌い激しい正岡子規、夏目漱石に「じゃれた」訳 一時は松山で共同生活を送ったこともある親友

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2人の共同生活は、1895(明治28)年の8月27日からスタートし、療養した子規が東京に戻る10月17日までの52日間にもおよんだ。漱石としても慣れない土地で、友人と暮らせたのはうれしかったに違いない。

子規が松山に来たときのことを、漱石はこんなふうに書いている。

なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る(夏目漱石『正岡子規』)

これでは、まるで子規がいきなり漱石のもとへ押しかけたようだが、前述した経緯を踏まえれば、事実ではない。だが、そこには漱石がひかれた「子規らしさ」が込められているように思う。

高浜虚子が聞いた夏目漱石の愚痴

この同居時代について、2人を知る高浜虚子(たかはまきょし)は、漱石からこんな子規への愚痴を何度も耳にしたという。

子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻(うなぎ)を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発(た)ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた(高浜虚子『漱石氏と私』)

もしかしたら、この逸話も漱石の誇張が多少は含まれているのかもしれない。「参ったよ」と言いながら、子規の無礼をどこかうれしそうに語る漱石の顔が思い浮かぶようだ。

学生時代から仲のいい2人。その関係性を示すユニークな手紙のやりとりを紹介したい。

1889(明治22)年、子規が自らを「妾」、漱石を「郎君」と呼び、手紙を出しているのだ。「妾」とは、女性が自分をへりくだって使うときの一人称のことで、「郎君」は、妻や情婦が夫や情夫のことを指していう語だ。子規はすっかり女性になりきって、漱石のことを「おまえさま」「あなた」と呼んで、漱石にじゃれているのだ。

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