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好き嫌い激しい正岡子規、夏目漱石に「じゃれた」訳 一時は松山で共同生活を送ったこともある親友

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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そんな子規にあきれながらも、漱石もノリノリで応じている。『木屑録(ぼくせつろく)』という漢文の紀行集のなかに子規の手紙への返事がつづられており、現代語訳すると次のようになる。

無駄に年を重ねて二十三 はじめて美人に「あなた」と呼ばれた

まるで思い人同士のやりとりだ。そんな2人がともに暮らしたのだから、楽しくないわけがなかったのである。

いよいよ松山を去るときに、漱石は「御立(おた)ちやる可(か) 御立ちやれ 新酒菊(しんしゅきく)の花(はな)」と送別の句を送っている。それに対して子規は「行く我に とどまる汝に 秋二つ」と詠んだ。

「それぞれの秋を送るだろう」

重い病状を自覚して、永遠の別れを覚悟していたのだろう。子規の句は的中することになる。

病床で創作活動を続けた子規

漱石はその後、熊本での赴任を経てイギリスへ。子規は東京根岸の「六尺の病床」で、闘病生活を送る。

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それでも子規の意欲は衰えることがない。俳句、短歌の革新運動を行うべく、病床で創作活動を続けた。

しかし、子規の病状は悪化の一途を辿る。背中や臀部に穴があいて、膿が流れ出るなかで、激痛に悶え苦しんだ。ロンドンにいる漱石に手紙を出して「僕ハモーダメニナッテシマッタ」と悩みを吐露したこともあった。そして1902(明治35)年、漱石の帰国を待つことなく、子規は34歳の生涯を閉じている。

漱石は子規のことを「二人で道を歩いていてもきっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ」(夏目漱石『正岡子規』)とも書いた。おそらく漱石は叶わないとわかっていながらも、願っていたのだろう。子規には、いつも自分を引きずりまわす存在であってほしい、と。

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