豊臣秀吉は、信長のような言葉によるスローガンは掲げませんでしたが、もっと強烈な形で自己の指針を示しました。信長の「天下布武」は基本的には利害関係にある大名やそれに準ずる武士勢力に示した言葉です。しかし信長の後を継ぎ、天下統一が現実のものとなった秀吉は、大名や武士だけではなく一般の民にも意思を示す必要がありました。この時代は文字を読める人間が限られていたので、文字よりも、もっとわかりやすい手法を要していたのです。
それが「建築物」と「イベント」でした。
秀吉は「自分が天下を治めた以上、皆、平和に暮らせる」という宣言を方広寺の大仏殿にて示しました。そして国の平和を願う大モニュメントを建築するために、民が持っている刀や武具を徴収するという命令を発します。いわゆる刀狩りです。これは「豊臣の天下は平和で民は皆守られる」ということを、煌びやかな大仏殿をもってスローガンとしたのです。まさに秀吉の持つスケールの大きな発想力の賜物です。
また、秀吉は「醍醐の花見」や「北野大茶湯」「肥前名護屋城での仮装大会」など、大イベントを催しました。それまでの戦乱による暗い時代を払拭する華やかなイベントは、文字よりも遥かに直感的に日本中に広がっていきます。現代でもイベントは平和の象徴として行われますが、その先取りをしていたわけです。
さらに建築物は、それを「見る」ことによって効果を持続できます。建築物を活用する方法は東大寺の大仏など過去にも多々ありましたが、これを「刀狩り」という政策と合わせるのが秀吉の凄さでもあります。
この当時の家康は、豊臣家のナンバー2として、秀吉のこうした施策を静かに学んでいました。江戸の町づくりは大坂をモデルにしていましたし、秀吉が目指した国づくりは、海外政策を除いて踏襲していきます。
家康は鼓舞するより統治を考えた
秀吉がこの世を去ったことで、ついに家康に天下取りのチャンスが巡ってきます。家康は、秀吉が信長の天下を簒奪したのと同じ方法で豊臣家から実権の簒奪を画策します。
家康は、信長のように文字でスローガンを表すことも秀吉のように建築物やイベントで民衆の支持を得ることもしませんでした。基本的には秀吉の政策をそのまま引き継ぐ姿勢を示します。これによって表向きには豊臣家の重臣という地位のまま、しかし大名のあいだでは確実に、家康が天下の主であることが認知されていきました。家康はあえてスローガンを使わないことで、周りの「期待」を煽ったのです。
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