大河で描かれぬ徳川家康「17歳、初陣」から凄かった 今川義元を満足させた、したたかな戦いぶり

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そんななか、今川義元は永禄3(1560)年、大軍を率いて尾張へと侵攻する。この桶狭間の戦いにおいて、家康は先発隊として参加。1000あまりの兵を率いて、岡崎城から出陣した。

家康の様子は『信長公記』にも、次のように書かれている。

「このたびの合戦に松平元康(徳川家康)は、朱色の武具をつけて今川方の先陣をつとめた。 大高城へ兵糧を補給し、鷲津・丸根攻めに手を焼き苦労したので、人馬に休息をとらせて大高に陣を据えていた」

『信長公記』は織田信長の旧臣で和泉守の太田牛一が、慶長15(1610)年ごろに完成させたもの。信長の一代記であるため、ここでも家康の動向は「大高城へ兵糧を補給し」とあっさり書かれているが、実際はそう簡単な任務ではなかった。

今川義元は、大高城を義元の妹婿である鵜殿長照(うどの・ながてる)に守らせた。一族に任せたのは、織田陣営に入り込んでいる大高城がそれだけ重要拠点だからこそ。織田家も警戒しているだけに、大高城に兵糧を入れるのは至難の業だった。

ブレない姿勢を示しながら、着実に実行

松平の家臣たちも不安な様子を見せたようだ。また、10代の未熟なリーダーに現実を伝えなければという思いもあったことだろう。

家臣たちからは、自分たちだけで行うのではなく、今川家からの加勢を求める声が上がった。だが、家康は家臣たちの意見を退けて、あくまでも義元に従う決意を見せたという(『岩淵夜話』)。

「兵糧を入れにくいことは、百も承知だが、下された命令に背くことはできない。もしも、自力で兵糧を入れ損じた場合は、それまでと覚悟を決めたうえのことだ」

困難なときにトップリーダーが少しでも弱気な顔を見せると、下につくものの不安は倍増する。家康はブレない姿勢を示しながら、着実に実行に移している。

次ページとはいえ、闇雲に突っ込むことはしない
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