家康ははたして、初陣でどんな戦いぶりを見せたのか。江戸時代初期に旗本の大久保忠教が著した『三河物語』には次のようにある。
「寺部の城へと押しよせると、城の外郭を破って、放火して岡崎城へと戻った。次に梅ヶ坪城にも攻め寄せた。敵は城から討って出て、攻撃を防ごうと戦ったが、どうして太刀打ちできようか」
躍動する家康の姿が生き生きと描写されている。その後は、相手が退却したすきをねらって、敵軍を外構えへと追い込んでいき、二の丸と三の丸を焼き払い、大打撃を与えてから退却。勢いに乗る家康は、さらに攻撃を展開していく。
「広瀬城、挙母の城へ押しよせると、多くの人を殺し、構を壊して、放火して兵を引く。また岡崎城へと戻り、しばらくして駿河へと帰った」
これには家臣たちも大喜びだったらしい。祖父の松平清康を引き合いに出して「清康の威勢にそっくりだ」と言いながら、涙を流して喜び合ったという。
上記の『三河物語』の内容がどこまで実際の出来事に即しているかは定かではないが、『徳川実紀』でも同じような戦い方が記載されている。「敵はこの城1つに限るわけではない。あちこちの支城から後詰されると、大変な事態となる。まず、枝葉を刈り取ってから、根本を断つべきだ」(『徳川実紀』)と、城下を放火して引き上げるという作戦の狙いが、より明確に描写されている。
少なくとも家康の初陣が、ほろ苦いデビュー戦とはならなかったのは確かなようだ。
旧領の一部を取り戻す
そんな初陣らしからぬ家康の活躍に、今川義元も大いに満足したらしい。戦功が評価されて、旧領だった山中領の一部が元康、つまり、家康に返還された(『松平記』)。
今川義元といえば、3歳のときから軍師の雪斎から教育を受け、それまでの領国だった駿河と遠江だけではなく、三河まで進出。3カ国を支配して、「海道一の弓取り」とも称されている。そんな義元に認められたことは、若き家康にとっても大きな自信になったことだろう。
私生活においても、初陣の前年にあたる弘治3(1557)年に、今川義元の姪である築山殿を妻に迎えている。今川氏一門に極めて近い武将となった家康。さらに永禄2(1559)年には松平信康を、永禄3(1560)年に亀姫を出産。一男一女が生まれている。
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