ワールドカップという例が極端すぎるとすれば『M-1グランプリ』はどうだろう。今そこにいる漫才師本人の腕っぷし(声っぷし、身体っぷし)だけの勝負による、何が起こるかわからない緊張感は「絶対生で見なければ」という視聴ニーズを誘発する。
言いたいことは、「昭和紅白懐古」という限定的な話ではなく、はるばるフェスに足を運び、「一発撮り」のYouTube音楽チャンネル「THE FIRST TAKE」を見るような若い音楽ファンまでを引き込む大きな戦略としての「3生紅白」の可能性だ(余談だが、紅白で披露されたVaundyプロデュース『おもかげ』はTHE FIRST TAKEで知られた曲である)。
「シンプル性」「サプライズ性」という方向性
さて、生演奏・生歌・生放送=「3生紅白」への具体的な演出として、「シンプル性」「サプライズ性」という2つの方向性を提案したい。
「シンプル性」とは、先のような「編集済み映像インフレ時代」へのアンチとして、音楽そのものを主役とした、けれん味のないシンプルな演出である。個人的には、話題作り的なパートはもっと簡素に、さらには開始時間を(昭和の紅白のように)21時からにしてもいいので、その分密度を高めてほしい。
加えて「サプライズ性」。事前にネタの内容が公開される「M-1グランプリ」などありえない。もちろん出場者・曲目を一切事前公開しないのもありえないだろうが、例えば、特別企画はすべて本番までのお楽しみにするなど、サプライズ性によって期待感を高める方法は、いろいろと考えられよう。
ちなみに、昭和50年代のテレビ界を席巻した萩本欽一によるこの発言は示唆に富む――「そんなある時、稽古をしていたらあさま山荘事件が生中継で報道されてたの。山荘の窓だけが映し出される映像を何時間もの間、日本中の人が固唾をのんで見守っていた。(中略)テレビで大事なのは稽古でも勉強でもなく、『何かが起こる』という期待感なんじゃないか。それに気づいてから、テレビに対する意識がガラッと変わりました」(サイト『NHKアーカイブス』のインタビュー記事より)
先の「準MVP」の4組、あいみょん、藤井風、安全地帯、桑田佳祐他による冒頭の生パフォーマンスに感じるのは、「なめんなよ、生身の音楽家としての俺(私)を」という意気込みだ。
だとしたら、その意気込みだけで構成すればいいのである。これからの紅白は生演奏・生歌・生放送の「3生紅白」、言い換えると「紅白“生”歌合戦」「U(歌)-1グランプリ」になるべきと、私は考えるのだ。
――君がいつも 歌う怪獣の唄 まだ消えない 口ずさんでしまうよ(Vaundy『怪獣の花唄』)
「3生紅白」の期待感・緊張感の中で披露された歌はすべて、決して消えない、そして口ずさんでしまう「怪獣の唄」になることだろう。
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