亡くなった母のいた過去に戻る息子の超常体験 小説「この嘘がばれないうちに」第2話全公開(3)

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幸雄は数の姿が見えなくなると、おもむろにジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、画面を確認した後、小さなため息をついた。

「圏外か……」

幸雄は、そうつぶやくとチラリとワンピースの女を見て、しばらく何かを考えるように目を泳がせ、席を立った。

幸雄は、まだワンピースの女がトイレに立つことはないと考えたのだろう、携帯電話を握りしめたまま、スタスタと入口に向かい、喫茶店を出た。

カランコロン。

カウベルが鳴った、そのすぐ後で、

パタリ。

と、店内にワンピースの女が小説を閉じる音が響いた。おそらく、幸雄は誰かに連絡を取るために席を立ったのだろうが、タイミングが悪かったとしか言いようがない。

ワンピースの女は、読んでいた小説を小脇に抱え、静かに立ち上がると音もなくトイレに向かって歩き出した。

この喫茶店は入口の奥左側に大きな木製の扉があり、外に出ることができる。右に曲がるとトイレがある。ワンピースの女はゆっくりとした足取りで入口のアーチを抜けると、右に曲がった。

バタン。

トイレのドアが閉まる小さな音がすると、誰もいなくなった店内に、キッチンから数が戻ってきた。

もし、この場にいたのが流なら、いなくなった幸雄を大あわてで探しに行くに違いない。今が、過去に戻るための、一日に一度きりのチャンスであるからだ。

しかし、数はあわてない。むしろ、何事も起きていないかのように、涼しい顔でワンピースの女が使っていたカップを片づけはじめた。まるで、幸雄という訪問者はいなかったかのようにも見える。数は、幸雄がなぜ出て行ったのかや戻って来るのかどうかに興味はないのだろう。

テーブルにダスターをかけ、トレイに乗せたカップを片づけるために、数が再びキッチンに姿を消すと、カウベルが鳴った。

カランコロン。

「姉には連絡しておきました」

幸雄が戻ってきた。手に持っていた携帯電話はポケットの中で、今は手ぶらである。幸雄は元いたカウンター席に腰をかけると、目の前のグラスに手をのばした。カウンター席に腰をかけると、例の席に背中を向ける形になるため、幸雄はワンピースの女がいなくなっていることに気付かないまま、水を飲みほし、長いため息をついた。

キッチンから、トレイに銀のポットと真っ白なコーヒーカップを載せた数が現れた。

数に気付いた幸雄は、

「姉には連絡しておきました」

と席を外していた理由を説明した。その口調には、さっき葬儀に出なかった理由を聞かれ、「答えなければいけませんか?」と言ったときのトゲトゲしさはない。

京子と何を話してきたのかはわからなかったが、数は静かに、

「そうですか」

と答えた。

幸雄は視線を上げ、数の姿を見てゴクリと息を飲んだ。体のまわりがぼんやりと薄青い炎に包まれているかのような、この世のものではないような幽玄な雰囲気が漂っている。

幸雄は、数に、

「お席が空きました……」

と言われて初めて、例の席にワンピースの女がいないことに気付き、思わず「あっ」と声をもらした。

数はワンピースの女が座っていた席の横で、

「お座りになられますか?」

と、幸雄に声をかけた。

次ページ「過去に戻れるのは、コーヒーが冷めてしまうまでの間だけ」
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