亡くなった母のいた過去に戻る息子の超常体験 小説「この嘘がばれないうちに」第2話全公開(3)

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幸雄は、ワンピースの女がいなくなっていることに気付かなかった自分に驚いているのだろう、しばらく放心状態だった。だが数の視線を感じ、かろうじて、

「……ええ」

と答え、例の席の前に進み出ると、静かに目を閉じ深呼吸をしてからテーブルと椅子の間に体を滑り込ませた。

数は幸雄の前に真っ白なカップを差し出しながら、

「これから私があなたにコーヒーを淹れます」

と、ささやいた。落ち着いた、重みのある声である。

「過去に戻れるのは、このカップにコーヒーが満たされてから、コーヒーが冷めてしまうまでの間だけ……」

このルールについては、さっき説明したばかりだったにもかかわらず、幸雄はすぐに返事をせず、しばらく考え込むように目をつぶってから、

「……わかりました」

と、独り言のように答えた。さっきまでの返事とは違い、ほんの少しだけ声のトーンが低くなっている。

「コーヒーが冷めないうちに……」

数は小さくうなずくと、トレイの上から十センチ程度の長さのマドラーのような銀のスティックをカップに滑り込ませた。

幸雄は、それが何なのか気になったのだろう、

「これは?」

と、首を傾げながら数に問いかけた。数は、

「スプーンの代わりにお使いください……」

とだけ説明した。幸雄は、

(なぜ、スプーンじゃないのか……?)

と、疑問に思ったが、説明を聞く時間も惜しかったので、

「わかりました」

とだけ答えた。

一通りの説明は終えていたので、数は、

「よろしいですか?」

と、声をかけた。幸雄は、

「はい」

と答えると、グラスの水を一口飲んで深呼吸をしてから、

「お願いします」

と、つぶやくように返した。

数は、小さくうなずいて、ゆっくりとトレイに載った銀のポットを右手で持ち上げると、

「絹代先生に、よろしくお伝えください……」

とささやいてから、

「コーヒーが冷めないうちに……」

と、続けた。

この嘘がばれないうちに
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数は、まるでスローモーションのような動きでカップにコーヒーを注ぎはじめた。何気ない仕草ではあったが、一連の動きはバレリーナのように美しく、儀式めいた崇高さがあった。同時に店内もピンと張り詰めた空気に変わる。

銀のポットの注ぎ口は非常に細くなっていて、注がれるコーヒーは細い線のように見える。広口のカラフェなどから注ぐときのようなジョボジョボという音はしない。コーヒーは銀のポットから真っ白なコーヒーカップへと音もなく移動する。

幸雄がコーヒーとカップの黒と白のコントラストを見つめていると、注がれたコーヒーから、ゆらりと一筋の湯気が立ちのぼった。その瞬間、まわりの景色がゆらゆらとゆがみはじめた。幸雄はあわてて両目をこすろうとしたができなかった。近づけた両手が「手」という感覚はあるのに湯気になっている。手だけではない、体も足も全部である。
(こ、これは……)

初めは想定外の出来事に驚きはしたが、これから起こることを考えれば、すぐにどうでもよくなったのか、幸雄はゆっくり目を閉じた。

幸雄のまわりの景色は上から下へと緩やかに流れていった。

(1月6日配信の次回に続く)

川口 俊和 小説家、脚本家、演出家

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かわぐち としかず / Toshikazu Kawaguchi

大阪府茨木市出身。1971年生まれ。舞台『コーヒーが冷めないうちに』第10回杉並演劇祭大賞受賞。同作小説は、本屋大賞2017にノミネートされ、2018年に映画化。川口プロヂュース代表として、舞台、YouTubeで活躍中。47都道府県で舞台『コーヒーが冷めないうちに』を上演するのが目下の夢。趣味は筋トレと旅行、温泉。モットーは「自分らしく生きる」。

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