先日、同居人と雑談していたとき、好きな食べものを聞かれて絶句した。何も出てこない。自分の好きな食べものが分からない。こんな簡単な質問で絶句することあるかよ、と思うが、何と答えればよいのか分からなかった。
自分を霧のように感じる
結局、ハンバーグと答えた。ちょうど昼にハンバーグ定食を食べており、それがすごく美味しかった。しかし、そういうことじゃないだろう。そんな短期的な意味合いで好きな食べものを答えていいのか。次の日にしょうが焼き定食を食べれば、好きな食べものはしょうが焼きになってしまう。誰かに自分を語る必要性がなくなると、好きな食べものですら分からなくなるのだろうか。
別の日、同居人が飼い猫に目薬をさしていた。目の調子が悪く目ヤニが出てしまうと言っていた。ネコ用の目薬で、商品名はメニニャンというらしい。
「じゃあ、メニコンはキツネ用なのか」
なんとなく言うと、これに杉松が異様なほどウケて、ぶははははは、と豪傑のように笑い出した。
「たしかに! たしかに、メニコンはキツネ用になっちゃうね!」
私はウケを狙って言ったのではなく、ほとんど独り言のように口にした言葉だったのだが、予想外の大きな反応があり、ふいに自分自身へと意識の焦点が合った。急速に恥ずかしくなった。まさに自己の濃度が上がる瞬間を体感した。
感覚としては屁に近い。思念という屁が口からもれて、その音を聞かれたと気づいて恥ずかしくなる。このとき、恥というものが具体的な血液の反応として発生していることに気づいた。肉体を血液がすばやく走る。スッと顔に赤みがさす。身体の細かな反応に、以前よりも敏感になってきた。
過去の感情に圧迫される感覚が減り、自分を霧のように感じ、過去が他人事のようになり、身体の感覚が鋭くなる。それぞれの変化は関連しているように思う。
こうした変化にともない、連休当初とは関心の方向も変わりはじめた。自己とは何か? 記憶とは何か? 身体とは何か? そうしたことが気になりはじめている。自己啓発から哲学への移行とでも言えばいいのだろうか。
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