本当に人が変わるとき、ざぶとんの下にいた虫を知らぬうちに尻で踏んでいたかのように変化するのではないか。変わりたいという感情は、「自分はこのような人間である」という自己規定の残りカスみたいなものなのではないか。
連休当初に悩んでいた問題は不思議な解決を見せた。ひざかっくんされるような脱力的な形で、悩みが消えている。
「押尾語録」の安定作用と危うさ
大学4年、進路に悩んでいた頃、ネット上で「押尾語録」というものが流行っていた。俳優・ミュージシャンである押尾学が語ったとされる言葉を集めたもので、実際は言っていないものが大半らしく、後に本人が捏造として否定している。
要するに、「キャラクターとしての押尾学」をネット上の人々が勝手に作り上げてしまったのだが、当時、その発言の数々を笑いながらも、どこかで怖れた。あるいは、怖れたからこそ笑っていた。笑いによって恐怖を薄めようとしていた。押尾語録には、こんな言葉があった。
《最高の俺は他人は当然、俺自身も超えられない》
《何故俺はロックなのか? それは俺がロックだったからさ》
《俺はカート・コバーンの生まれ変わりだ》
《ヒーロー不在のこんな時代だから、俺への負担も自然とデカくなる》
《俺の音楽にロックを感じないやつは、二度とロックの本質に触れられない》
《おまえらが今付き合ってる女は、俺と付き合えないから仕方なくおまえらと付き
合ってるんだ》
「自信満々の男の言動」ではあるのだが、自信満々の度が過ぎて、ほとんどパロディのようになっていた。他人を必要としない自己肯定のループ。自我の永久機関。俺は常に俺でしかなく、俺は俺であり俺が俺であるゆえに俺は俺であるのだから俺は俺であることしかできない。
不毛なトートロジーに見えるこうした思考回路こそが、じつは自我を安定させる秘訣であり、そこでは俺が俺であり俺であるがゆえに俺であって、論理もへちまもない。揺るぎなく「男」であるというのは、そういうことなのかもしれない。そうなることができれば、この心も安定するのかもしれない。私には、論理もへちまもあるのだが。
当時、そんなふうに考えていた。しかし、自我の永久機関は存在しないし、それを実現しようとすることは狂気への道だろう。
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