2000連休で自分に向き合い続けた男が悟った真実 「本当の自分」という幻想、自己啓発から哲学へ

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自己啓発書を読んでいたときに自分が何を求めていたか。それは揺るぎない自己を作ることであり、自分の価値を迷うことなく断言できる境地に達することだったのだろう。さまざまなものに影響されてすぐに揺らいでしまう弱い自分に、ひとつの筋を通したい。そうすれば傷つかなくて済むはずだ。

しかし、この方向に進むと、自我の永久機関というよりは、自我の要塞とでも呼ぶべきものを完成させて心を守ることが目標になってしまうのだろう。

人間関係の中で形づくられる自分

最近、自分というものを霧のように感じる。数カ月かけておこなった記憶の書き出しやデータベース化によって感情記憶の圧迫が薄れたこと、そして現在には同居人以外との人間関係がないことが原因だろうか。

他人に名前を呼ばれたり、顔を見られたりすれば自己の濃度は上がる。ほめられたり、けなされたりすれば急激に上昇する。しかし人付き合いがなければ、自己の濃度はゆるやかに下がってゆく。人間は人間同士であまりに濃密に視線や言葉をやりとりし、互いの言及を繰り返しているから、自己の濃度が限界まで上がって固くなり、ほとんど殻のように感じているのではないか。霧のようなものが凝縮して、堅い殻となったプロセスが忘却されている。

現在の私の生活では自己の濃度が上がる原因がほとんどない。日常の人間関係が減り、記憶に残存していた古い人間関係とも距離が生まれはじめると、それまで「自分らしさ」だと思っていたものとの同一化が切れていく。いわゆる自分らしさは人間関係の中で仮構されてゆくし、役割を演じる感覚も生まれる。

親の前では子としてふるまい、教師の前では生徒としてふるまい、後輩の前では先輩としてふるまい、客の前では店員としてふるまう。もちろん完全に演技しているわけではないのだが、人間関係の中で役割をこなしている感覚がどこかで生まれるものだし、それに比例して「本当の自分」という幻想も生まれる。それもまた無理に演じた役割の裏面として生まれた妄想のような気がする。

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