親氏はずいぶんと連歌の作法に詳しそうなオーラを放ちつつ、座から離れて見学していたという。気になった信重が「どこから来たのか」と尋ねると、親氏は「東西南北を巡りまわる旅の者」だと答える。
信重が執筆役を依頼すると、最初は「心得がない」と返答した親氏だったが、結局は「強いて所望するなら」と引き受けている。どれほど連歌が得意だったのだろうか。その後の展開は、次のようなものだった。
「たらいの水で沐浴し、座の中央に座って連歌を書き留めた。その筆跡は見事だった。さらに信重が一句を所望すると、なかなかの秀句をつくっている。これを機会に、信重のもとに長々と逗留することになった」
連歌にも長けていた親氏。いざ出立しようとしたところ、信重に引き止められて、こう言われたという。
「私の娘の婿になってほしい」
これに対して、親氏が「弟を呼び寄せることを、許してくれるならば」という条件のもと承諾し、跡取りになったという。
徳川家康と通じるところがある
そつなく相手の要望に応えることで、信頼を得るのは、いかにも家康の祖先らしい。
というのも、こんなことがあった。ちょうど家康が「松平」から「徳川」に改称した頃の話である。室町幕府13代将軍の足利義輝が、織田信長、徳川家康、今川氏真の3人に、飛脚に用いる馬を要請した。そのときにほかの誰よりも早く馬を贈ったのが家康であり、将軍を「すばやい対応はまことに神妙」と感心させている。
さらに親氏については『三河物語』では僧、『松平氏由緒書』では旅人とされるなどの違いはあるもの、流浪の身で、相手の懐にすっと入ったところでは共通している。これも、人心掌握に長けていた、家康らしさに通じるものを感じてしまう。
その後、松平郷を引き継いだ親氏は、同じく流浪の身だった弟の松平泰親と手を組んでいる(泰親は「弟」ではなく「息子」だったとする説もある)。勢いに乗る親氏と泰親は、中山七名と呼ばれる諸豪族を従えることに成功した。だが、しばらくして親氏は急死。泰親が後を継いだ。
勢力拡大の野望を持って、松平氏の基盤を築きあげた松平親氏。親氏の死から130年以上経ったのち、子孫の家康が途方もないかたちで、その夢の続きを実現させることとなった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社新書)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら