江戸幕府の旗本である大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した『三河物語』では、徳川がいかに興ったのかが記されており、出自についても触れられている。現代語訳してみると、次のようになる。
「松平郷に太郎左衛門尉といって、三河の国で一番の裕福な者がいた。どんな縁なのか、太郎左衛門尉のところに1人の娘がいたので、徳阿弥殿を婿にとり、跡とりにした」
この「徳阿弥」は親氏の法名ということになる。どういう縁があったかわからないが、裕福な家の娘のところに婿入りすることができたという。迷える死者のように、定住もせず諸国を放浪していたという徳阿弥(親氏)だったが、転がり込んできたチャンスをちゃっかりものにしたようだ。太郎左衛門尉家の跡取りになると、徳阿弥は還俗して「松平親氏」と名乗ることになる。
それにしても、この親氏という男、なかなかアグレッシブで、松平郷に来る前には、坂井(現:西尾市)という村に行き、やはり同じようなことをしている。
「西三河坂井の郷に立ちよると、足を休められた。その折に、寂しさから身分の低い者に情けをかけて、若君1人をもうけられた」
ふらっと立ち寄ると、何かとそこにいる女性と、子どもを作りがちだった親氏。すぐに人をひきつけてしまう、魅力あふれる人物だったのだろう。
僧ではなく「旅人」という説も
一方、『松平氏由緒書』では、親氏は「僧」ではなく「旅人」と記載されている。そして、太郎左衛門尉家の跡取りになった経緯も詳しく語られている。なお、『松平氏由緒書』では「徳翁斎」「信武」とされているが、通説にしたがって「徳阿弥」「親氏」と記載することにしよう。
ある日、松平太郎左衛門尉信重らが、気心知れた人たちと、集まって連歌を張行しようとした。雨天続きだったので、室内で連歌を読むのが、ちょうどよかろうということになったらしい。
しかし、いろいろ準備を整えてはみたが、一座の連歌を記録する「執筆」(しゅひつ)の役が決まらない。あれこれと言い合っているうちに始めるのがずいぶん遅くなってしまった。そんなときに現れた1人の旅人……それが親氏だった。
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