米国市場で生き延びる、ホンダ「影の努力」

ジャパンバッシングを未然に防ぐ

1980年代にかけて、2つのことが起こりました。ひとつは、自動車の日米通商摩擦。もうひとつは1979年の9月から、ホンダが米国のオハイオで2輪車を造り始めたことです。

桑島それがホンダの初めての直接投資ですか。

園田ええ。実は他社よりずっと早く、4輪の現地生産も検討していたのですが、なぜ2輪から始めたかというと、1959年から米国はホンダの2輪を輸入しており、「ホンダ=オートバイ」と認識されるまでになった。それに対してお礼をしたい、という創業者や先駆者の方々の強い思いがあったからです。

1970年代後半の米国経済は高インフレ、高失業です。特に米国の自動車業界は、大変な経営難に陥っていました。そのうえUAW(全米自動車労働組合)の加盟工場が造る車は品質が悪いと言われていた。そのときホンダの社長だった河島喜好さんは、「品質が悪いのは労働者のせいじゃない。どうやって経営するかで品質が変わるんだ」と考えて、1980年に4輪の製造開始が決定しました。

それから1981年、1982年あたりから日米自動車交渉があり、日本の自動車輸出自主規制がスタートします。そうなるとわれわれも今までのように単に環境技術の情報を米国政府に提供するだけではなく、通商代表部や議会などに対する日米通商摩擦の対応をやらなければいけなくなりました。

デトロイトで担当した、自動車メディアへの対応

園田しかし1990年くらいになると、通商摩擦がだんだん収まってきた。というより、日本からの輸入が減って、現地生産がどんどん増えていきました。それで私は1990年の7月に、東京本社の北米営業部に戻りました。その4年後に「自動車の街」であるデトロイトで米国の自動車メディアと渡り合う仕事を命じられ、1994年の11月から1998年の9月まで、PRの責任者としてデトロイトに赴任しました。

当時のデトロイトには、『ウォール・ストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』『ビジネスウィーク』『ニューズウィーク』など新聞や雑誌の支局長が集結していました。デトロイトは自動車産業の中心だったからです。そのほかにもアナリストや大学教授、それから自動車の将来について研究をしていたMITに情報を提供する仕事があります。それから日系企業もずいぶん米国に工場を造り始めたので、サプライヤーのグループにも情報を提供しながら、多角的にホンダを理解してもらうのが目的でした。

1994年というのは、米国が第1次湾岸戦争からのリセッション(景気後退)から立ち直ろうとするところです。だから私がデトロイトに行った頃は、日本車や日本人に対する風当たりがまだまだ強かった。たとえば家を探しているのに貸してくれない。車のタイヤを刺されたりしたこともありました。

桑島本当ですか。1990年代になっても、まだそんなことがあったとは。

園田まあ、いろいろな人がいるんでしょう。別にケンカする気もなかったですし。でも家を貸してくれないのには弱ってしまって、結局、駐在して1年後に家を買いました。もともとデトロイトはさびれたところで、空き家の数も少ないのです。

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