道長の邸宅であった「土御門殿」とは、藤原道長の権力の象徴のような場所だった。妻・倫子と結婚して得たこの邸で、道長の4人の娘は生まれた。そして彼女たちもまた息子をこの邸で産んだ。彼らはのちの天皇となったのだ。
ちなみに道長の有名な和歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」もまた、この邸で開催された宴会で詠まれたものだという。
かなり解釈が分かれる2人の歌のやりとり
そんな土御門殿の生活で、紫式部は藤原道長と言葉を交わしている。『紫式部日記』の中でもかなり冒頭にある会話である。
渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうちきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御隨身召して遣水払はせ給ふ。
橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば、「これ。遅くてはわろからむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。
女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ
「あな、疾」と、微笑みて、硯召し出づ。
白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ
<筆者意訳>私の控室の戸口から外を眺める。まだ、うっすら霧がかかった朝方だった。露もまだ落ちない時間帯に、道長様が庭を歩かれていた。彼はお付きの男を呼んで、庭の遣水を掃除させていたのだ。
それは透渡殿の南に咲く女郎花が、いちばんきれいな季節だった。道長様は女郎花を一本折り、几帳越しに私へ差し出した。彼のお姿はしゃんとしていたけれど、一方で私の起き抜けの顔はひどいもんだった。「ほら、この花についての和歌が遅くなってはどうします」と道長様がおっしゃった。私は硯の近くに寄り、歌を詠んだ。
“女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ”(秋の露に濡れる女郎花は、今が、いちばんきれいな時。でも花を眺めていると、露も降ってこなくて老けてしまった自分を思い知らされますわ)
「歌詠むの、早いなあ」と道長様は微笑まれた。そして硯を、とおっしゃって返歌を詠まれた。
“白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ”(白露はどこにでも降りますよ、女郎花は自分から美しくなろうとしているのです、あなたもその気になってくださいよ)
この和歌のやりとり、実はかなり解釈が分かれるものである。そもそも大前提として、道長は紫式部にとって大・大・大パトロン。上司どころの話ではない、自分を今の会社に引き抜いてくれた社長みたいなものだ。
そんな社長から、早朝に花を贈られる。ほら歌を詠んでくださいよと言われる。現代の感覚だと「パワハラでは!?」と腹が立ってくる。が、紫式部はその姿を「いと恥づかしげなる」と描写している。
「恥づかし」という古語は、現代語とは違い、「こちらが恥ずかしくなるほどに相手が立派である、すぐれている」という意味。この言葉の解釈はなかなか難しい。
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