佐藤:『奇跡の社会科学』で紹介されている著作は、どれも西洋のものですし、ほとんどが19世紀以後に書かれている。「近代西洋の叡智は普遍的なもの」という、一種の知的グローバリズムの立場を取っているのではと思う読者もいるかもしれません。
「東洋の自分の知恵」として表現すること
しかしここで再び提起したいのが、前編で触れた「再現(representation)」というポイント。古典の叡智を身につけるとは、それを「現在の自分の知恵」として表現できるようになることだったわけですが、ならば西洋の叡智を自国の歴史や伝統の文脈に溶かし込み、「東洋の自分の知恵」として表現することもできるはずでしょう。
これも芸術を通じて考えるとわかりやすい。黒澤明監督には『蜘蛛巣城』や『乱』といった作品があります。どちらも時代劇で、伝統的な日本人を描いているかに見えるものの、原作はシェイクスピアの『マクベス』と『リア王』です。黒澤はドストエフスキーの『白痴』を映画化したときも、舞台を敗戦後の札幌に置き換えました。
その意味で「原作に忠実な映画化」ではないのですが、作品の評価は高い。ロシアが生んだ天才監督アンドレイ・タルコフスキーなど、『蜘蛛巣城』と『白痴』こそ、シェイクスピアとドストエフスキーの映画化で最良のものとまで語りました。文化を超えた再現を成し遂げたがゆえに、原作の核心に迫る表現になったのです。
あるいは、こんなエピソードもある。かの劇団四季は旗揚げ当初、ジャン・ジロドゥとジャン・アヌイというフランスの劇作家の芝居をずっとやっていました。当時、ジロドゥはすでに他界していましたが、アヌイは現役で活躍中。
で、創立10年を迎えたころ、四季のリーダーたちがパリに行ってアヌイに会い、舞台写真を見せた。するとアヌイは不思議そうな顔で「どうして役者がみんな洋服を着ているのか?」と聞いたそうです。「あなたの作品ですから、フランス人に扮しているのです」と答えたら、「これは上流階級の家庭を描いた芝居だ。日本の上流階級は、家ではよく和服を着ると聞いている。なぜ和服を着てやらないのだ」。発言はどれも大意ですが、日本の劇団がやる以上は、日本の話に仕立て直して当たり前と、ほかならぬ作者が考えていた。のちに四季が、キリストの最期を描いたミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』を歌舞伎風の演出でやったりしたのは、この経験を踏まえたものでしょう。