「海の危機」に立ち向かう42歳海苔漁師の生き様 毎年100万円使って開く「海と海苔の勉強会」

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その様子を見た瞬間、閃いた。先述したように、有明海の海苔はもともとうま味が溶けだしやすい。独自の熟成方法によって有明海の海苔に負けないレベルに達したとしても、それは既存の土俵で戦っているにすぎない。これまでにない「うまい!」を創り出すことができたら、唯一無二の存在になることができる。

毎年完売する焼きのり(写真:アイザワ水産)

そこで相澤さんは、かんだ回数で味が出るタイミングを変える技術を生み出し、自分が作った海苔の味をこれまで以上に感じてもらえるような食べ方を提案するようになった。

こうして自分が作りたい海苔が表現できるようになったのが27、28歳頃。オンリーワンの存在になると同時に、ナンバーワンへの意欲もみなぎっていた相澤さんはさらに2009年、28歳のときに奉献乾海苔品評会でも頂点に立った。これは、今も破られていない史上最年少記録である。

すべてを変えた東日本大震災

誰にもまねできないようなおいしい海苔を作って、安さだけを求められる市場を変えてやろうと使命感を胸に行動していた相澤さんを変えたのは、東日本大震災だった。

2011年3月11日。たまたまその日、休日で外出していた相澤さんは、地震の直後、「組合を見に行く」と言い残して出ていった父親の後を追って、沿岸にある組合の建物に走った。

すると、沿岸から海の水が引いて底が見えていた。はっとして沖を見ると、巨大な黒い壁が押し寄せてきていた。その瞬間、組合の敷地内にある鉄筋コンクリートの一番高い建物に走った。間もなく津波が押し寄せ、建物のなかに海水があふれ出す。相澤さんは三角屋根のてっぺんまで無我夢中になって爪を立てて登ると、足元で水面の上昇が止まった。

恐怖に駆られながら周囲を見渡すと、すぐ近くの鉄工場の屋上に父親の姿が見えた。しかし動くことができず、降りしきる雪のなか、屋根の上で凍えながら一晩を過ごした。

翌日の昼過ぎにようやく波が引き、避難所に向かった。父親以外、家族の安否はわからない。焦りを募らせながら津波で徹底的に破壊しつくされた町を歩いているときに、たくさんの亡骸を目にした。当時、幼稚園に通っていた相澤さんの娘と同じ年頃の、泥まみれになった女の子を胸に抱え、おじいさんが泣き叫んでいた。その姿がまぶたに焼き付いた。

幸い相澤さんの家族は無事だったが、自分の想像が及ばないほどのあらゆる悲劇を目にした震災をきっかけに、新たな目標ができた。

「子どもを見ると、みんなにいい思いをさせてあげたいなって感じるようになったんですよね。子どもの将来とか未来のために、大人にできることならなんでもしてあげたいって。あのおじいさんの姿が、僕を変えました」

津波によって船も海苔の工場も流されたため、震災前のように海苔作りができるようになったのが、2015年。その年から、相澤さんは海苔の生産を続けつつ、海苔作りを通して見える自然の豊かさと魅力、それを脅かす環境の変化、これから自分たちになにができるのかという課題について「伝える活動」を始めた。

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