アナウンススクールへ通い、ミスコンで「グランプリ」を獲得してレポーター業を経験した西澤アナ。当時は「華やかな情報バラエティ番組」を担当できるイメージのあった、キー局のアナウンサー試験に挑んだ。
NHK、日本テレビ、テレビ朝日、フジテレビ、テレビ東京の選考が進む。しかし、努力もむなしく結果は“全落ち”に。
いやな体験は「周りの人に言えば感情だけは忘れられるタイプ」と自称するも、当時の感覚は今も鮮明に残っている。
小学校の頃から憧れ、努力してきた「夢の世界」への挑戦は、“全落ち”の結果で終わった――「人生最大の挫折」を味わい、みずからの悩みを「親友にも打ち明けられなかった」ほどに落ち込んだ。
そして、くしくも苦難は重なる。就職活動での失敗とほぼ同時期に、長年付き合っていた恋人から別れを告げられた。
いまだ、当時を振り返る親から「本当、ヤバかったよ」と言われるほど、追い詰められていた。
就職後は、通勤時に涙が込み上げた
後ろ髪を引かれつつも、就職活動を継続して、現在の勤務先である「サイバーエージェント」へ就職。配属先は、同社の手がける「Amebaオフィシャルブログ」の営業だった。
働く環境も人も「自分に合っていた」会社。日に日に、仕事へのやりがいを感じるようになっていた。しかし、アナウンサーへの未練もあった。
当時は、会社員と並行して芸能事務所にも所属しレポーター業を続けていた。
本業との両立を図りながら「どこかにチャンスが転がっていないか」と考え続ける毎日。同社オフィス(当時)の最寄り駅である京王井の頭線・神泉駅からの行き帰りには、涙が込み上げる日もあった。
その理由は、自身の“現状”に対する葛藤。「当時は、大学時代に通っていたアナウンススクールで一緒に学んでいた友だちが、テレビで活躍する姿を見るたび『私、本当にこれでいいんだっけ……』と思っていました」と回想する。
しかし、就職から2年が経ったある日。「かつて夢破れた世界」へ飛び込むチャンスが巡ってきた。
西澤アナの入社と共に開局した、同社とテレビ朝日の共同出資によるインターネットテレビ「ABEMA」がアナウンス室を作るという話を耳にしたのだ。
西澤アナが知ったのは、エントリー期限ギリギリの時期。迷う理由はない。急いで「エントリーシートとエントリー動画」を準備し、応募した。
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