犯罪に走る人には、"悪の遺伝子"がある? 犯罪者と非犯罪者を分ける決定的要素
それはもちろん「そうなってしまった後」、たとえばセロトニンレベルが低いだとか、前頭前皮質のように暴力に結びつく部分が悪影響を被った後でも対処可能なものだ。自分自身が暴力に結びつきやすい衝動を抱えていると明確に意識されれば、自分だけでもそれを抑える、あるいはそもそも衝動が発生しないように立ち回ることも可能になるからだ。しかし、この研究がより実際的な物となっていった場合、自己の制御という自己責任の枠を超えて国家的な介入プログラムや、法律面での改訂にまで至る可能性もある。
たとえば──突然、小児性愛を持つようになって事件に及んだ犯罪者が、実はある時期から脳にでかい腫瘍を抱えていたとする。そして、それを切除したら小児性愛への指向が綺麗さっぱり消えた、などということが起これば、多くの人は同情的になるだろう。
一方、そういった腫瘍が見つからない小児性愛者の脳はほとんど調べられないし、単純に自由な選択をする行為者と判断され、非難される。しかし技術は向上し続けるので、脳の測定精度が向上するにつれ、人がなぜ犯罪に走らざるを得ないのかを、神経科学はもっとうまく説明できるようになる。今は非難される犯罪者も、20年後には同情されているかもしれない。
20年後の世界、陽性者は収容?
そして神経犯罪学が発展していった先には、必ずこのような問いが浮かび上がってくる。いったい犯罪の責任はどこまで自由意志に求められるのか、どこまでが脳の、どこまでが環境の要因だったのか。有責性が技術の限界で決まるというのは筋が通らないのではないか、と。
本書は「未来」と題した最終章で「ロンブローゾ・プログラム」という今から20年後の世界に存在しているかもしれない仕組みを仮説的に提示してみせる。ある程度の年齢がいった男性を対象に脳と遺伝子スキャンを行って、犯罪率などにおいて陽性と評価されたものを特別施設へ収容し、改善のプロセスを走らせる仕組みだ。
こうしたSF的な問いかけは、実際そこまで出来がよいとは思わないし、何もしていないうちからその行動の自由を奪うやり方はどう考えても許されるものではない。だが「犯罪に走る可能性が79%ある人」を何もせずに放っておいていいのかという問いが無視できないものになりつつある昨今を省みると、この問いかけは俄然、現実味を帯びて迫ってくる。
これまでの、そしてこれからの人間と暴力性の関係について考えるためには、極めて重要な一冊だ。
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