近代税制の礎「地租改正」農民が泣いたエグい中身 土地の私的所有権が確立したのに手放す者が続出

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地租改正法と地租改正条例は明治6(1873)年に公布されているが、明治8(1875)年になっても完了していなかった。

そのため、大久保は明治9(1876)年の完了を目指したが、土地の所有者からの大きな抵抗が予想された。というのも、建前上はいいことずくめに見えた地租改正だが、実態はまったく違ったからである。

そもそも、なぜ地租改正が行われることになったのか。その理由はシンプルだ。従来のように、米で納められた年貢を、政府が売ってお金に変えていては、米の出来によって税金の額が変わる。それでは予算を組むことができない。

米で納める年貢から「地価の3%」の金納制に

そこで明治政府は、土地の石高に対して課税するのではなく、地価に対して課税を行うとした。まずは明治4(1871)年12月に、東京府下市街地に地券が交付される。翌年には田畑永代売買の解禁を決定し、売買や譲渡地に対しても地券が発行された。やがて、一般の私有地にもその仕組みが拡大される。

そして明治6(1873)年の地租改正法と地租改正条例により、地価を定めたうえで、それを地租の課税標準とすることが決まる。地租は地価の3%に統一し、納税はすべて金納制としている。

簡単にいえば「土地の所有権を与えるので、毎年決まった額の税金を納めよ」というのが、地租改正である。土地の私有が認められたうえに「地価は農民の申告に基づいて、政府との合意のもとに決定される」と条例では定められた。一見、いいことばかりのようだ。

重い年貢に苦しめられた時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている――。条例をそのまま受け取った者は、そう感じたことだろう。だが、現実はまったく違った。

というのも、政府は、必要な国費の額をまず決めてから、各府県の地租収入予定額を決定。府県はそれをさらに各町村に割り当て、町村は各戸に割り当てるというふうに、回収すべき税の目標額をきっちりと決めていたのである。

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