表向きこそ「地価は自己申告」としたが、あくまでも建前だ。村民たちから申告された地価が、目標額より低ければ、地方官が突っ返していた。
実態よりも高い地価に基づいて高い税を支払うとなれば、土地の所有者にとっては死活問題である。地価をめぐって、土地の所有者と地方長官との間で、激しい対立が生まれたことは、言うまでもないだろう。
政府の査定に対して、しつこく抵抗する村民に対しては、地方官がこんな脅迫をすることもあった。
「官の措置に抵抗するならば、朝敵である。かかる者は断じて皇国の地に住むことを許さない」
めちゃくちゃだが、決して口だけのこけおどしではない。実際に投獄された例もある。もし、農民の側に立つ戸長がいれば罷免され、総代は罰せられた。これでは、江戸時代の「代官」そのものである。
また、地価に応じて支払うということは、豊作であろうが、凶作であろうが、同じ額の税金を納めなければならないということ。もし、生産物の価格が下がった場合、大量に売らなければ、税金が払えなくなってしまう。
やむをえず、土地を手放して、小作人へと転落する農民が後を絶たなかった。自分の土地を持たない小作人は、国に地租を納める必要はなかったが、相変わらず地主に米を納めていた。地価が高く設定されれば、小作料も跳ね上がる。小作人の生活も困窮しており、逃げ場がなかった。
財政状態が極めて不安定だった
なぜ、これほど無理をさせなければならなかったのか。明治元年から地租改正に至るまでの7年半における財政統計を見てみよう。
安定的に納められる「通常歳入」は、年貢が8割以上を占めている。つまり「年貢をいかに取るか」が、国費を安定させる唯一の手段だった。
それでいて、歳入全体の中では、年貢は6割にも満たない。残りは何かというと、不換紙幣の発行や、商人からの借入や外積などの「例外歳入」に依存していた。財政状態は極めて不安定だったといえるだろう。しかも、廃藩置県以後、地租は年々減少している。このままいけば、さらに財政が悪化することは間違いない。
かき集めた年貢は、どのようなことに使われていたのか。歳出を見てみると、内政の改革に必要となる一般行政費は、定期的に歳出する「通常歳出」のわずか12%にすぎない。
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