何者にもなれない「中年おじさん」が苦しむ呪縛 「男らしさ」から逃れ"そこそこ"の人生を生きる

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男性は「男のプライド」にこだわったり、能力主義を重視して何事にも効率的で意味のあることを求めがちだ。たとえば病気でリハビリ中の身でも「おれはあいつより努力しているから回復が早い」などと、競争意識や能力主義にとらわれてしまう。

日常の「ささやかなこと」や「無駄に思えること」に意味を見いだせないことが、「男」らしさの呪縛なのかもしれない。日々の「無意味な楽しさ」に巻き込まれてそれを味わえばいいのに、なぜかそれを積極的な「男の趣味」や「~道(どう)」にしてしまう。そうしないと気が済まない。ささやかな事柄のようで、案外この辺りに重要な問題が隠れている気がする。

仕事に限らず趣味や地域関係などを増やして、できる範囲から人間関係を少しずつ拡げていく。そこから、「男らしさ」に過度に依存せずにすむようにカスタマイズされた生き方を探し出していく。

「そこそこ」の人生モデルが少ない

これまでの男性たちの文化は、結婚せずに独身で、特にエリート会社員でもなく、高い意識をもって社会貢献しているわけでもないが、「生きることはそれでも楽しい」「そこそこに幸福だ」──そのような人生の文化的なモデルをあまり作ってこられなかったのかもしれない。

中年男性だってべつに、犬猫と暮らして幸せだってかまわないはずだ。パンケーキやタピオカをインスタにアップして男友達と楽しんでもいいはずだ。

そういった「そこそこ」に人生を楽しむためのモデルがあまりなく、保守的で家父長制的な男らしさか、リベラルでスマートな男性モデルか、それくらいしか選択肢がない。そうした規範的なライフスタイルからこぼれ落ちたときにも、そこそこに幸福でそれなりに自由な生き方ができるというイメージを持っていない。

近年「オタク男性」や「草食系男子」や「イクメン」などのモデルが作り出されてきたように、男性の生き方の規範にももっとさまざまなバリエーションがあっていいし、選択肢や物語や文化があっていいだろう。

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