大久保利通、官僚に「爺さん」と呼ばれた納得の背景 驚く「頑固」な粘り、木戸孝允は「婆さん」と呼ばれた

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大久保の行動は素早かった。清から帰国した翌日には、留守を任せていた伊藤博文宅を訪れて、木戸を政府に呼び戻したい旨を伝えている。

スピードだけではない。自分の行動で怒らせてしまったからには、と大久保は最大限の誠意を見せるべく、わざわざ木戸のもとへ出向こうとした。木戸はこのとき故郷の山口県に帰っていたにもかかわらず、である。

相談された伊藤は、大久保が山口県まで出向くことには反対を示す。木戸にそこまでのことをしてしまえば、長州と薩摩のパワーバランスがおかしくなってしまう。

伊藤自身は長州出身でありながらも、政権全体を見渡したうえで、伊藤は大久保の行動がのちに弊害をもたらすと考えたようだ。いかにも調整が得意な伊藤らしい。それでも大久保は、相手がいる場所まで出向く準備を整えている。

12月24日、大久保は東京を出発する。同じ日に木戸は伊藤博文から書状を受け取っている。書状によると、大久保が自分のいる山口県の三田尻まで、わざわざ来航するつもりだという。

木戸もそこまで言われては、さすがに会談するほかない。また、書状には「木戸が大阪に行く予定があるならば、大阪で面談したい」という旨も書かれていた。木戸も腹を決めて、大阪へと向かうことにした。

大久保の熱心さに面食らっていた木戸

明治8(1875)年1月5日、木戸が神戸港に到着すると、大久保は同地に前泊までして出迎えている。この熱心さには、木戸も面食らったようだ。友人にこんな手紙を書いている。

「『昨夜、神戸に着いた』と大久保に待ち受けられて、会談に突入した。これには困ってしまった。例のごとく、大久保の粘り強い論調に押されて、強引にことが運ばれるのではないかと心配になっている」

木戸からすれば「大久保にいいように使われるのではないか」という警戒心が頭をもたげる。実際のところ、大久保が木戸を政権に引き入れたかったのは「大久保の独裁だ」という批判をかわす意図もあったに違いない。

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