ソ連の崩壊と社会主義の破壊は想定外だった ペレストロイカを実体験したロシア人教授の回想
――個人的にはどのように考えられましたか。
私は当時、ゴルバチョフが主張した方針を歓迎しました。1985~1986年当時、ゴルバチョフが掲げた政治路線を歓迎しなかった人は、ソ連内でほとんどいなかったと言っても過言ではありません。それは、当時のソ連社会で変化を求める要求が、本当に強かったためです。
当時の雰囲気を象徴する歌があります。「変化を望む」というタイトルです。当時の非合法なロックバンド「キノー」のボーカルだったヴィクトル・ツォイ(1962~1990年)が1987年につくった歌です。そこには「変化! 私たちの心は変化を要求する! われわれの目も変化を求める! 私たちの笑い、涙、脈拍の中での変化! 私たちは変化を待っている!」と歌い上げました。
興味深いことは、当時のソ連では変化を望む人々が絶対多数でしたが、その彼らが希望する望ましい政治路線については大きな違いがありました。当時、ソ連社会が今後進むべき方向性については少なくはない葛藤がありました。とはいえ、従来の体制を変える必要があるということは、ソ連国民の絶対多数が共有していました。そのため、その第1段階としてゴルバチョフの改革を強く支持したのです。
具体性がなかったペレストロイカ
とはいえ、ゴルバチョフの主張や政治にはあまり具体性がありませんでした。それでも、逆説的ですが、具体性がなかったからこそ彼の政治路線が高い支持を得ることにもなったのです。未来についてまったく違う考えを持っている人がたくさんいても、ゴルバチョフに対しては希望を感じていたのです。
――実際にペレストロイカがソ連の中で進み、実際の生活の中で大きく変化したこと、あるいはまったく変化しなかったことはありますか。
当時の私は、率直に言えば、今で言う「勝ち組」集団に属していました。1985年に北朝鮮の金日成総合大学での留学を終えてソ連に戻った時、すでにソ連社会の雰囲気が大きく変わったことに気づきました。私のような人々、すなわち名門大学で政治学や社会科学を専攻し、この問題に対して関心があった学生たちは、政治的な討論はたまにしていましたが、それでも秘密警察への恐怖がありました。
また、当然に言葉づかいに神経をとがらせなければならない。私も当時のほとんどのソ連人のように、小学生の時から家で「言葉に気をつけろ」といった教育を受けました。ゴルバチョフ就任後には公の場で比較的簡単にできるようになりました。そしてまもなく、メディアでも政治的問題が取り上げられるようになりました。
アカデミックな分野でも、学者たちの研究の自由も急速に拡大しました。公開的な討論・議論ができないような、いわばタブー視されていたテーマでさえ、ゴルバチョフ以降は自由に討論できるようになりました。当然、私のような研究者たちは興奮し、とてもいい気分を味わいました。
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