北朝鮮は「ソビエト」最後の日々をどう見たか ゴルバチョフと北朝鮮の指導者の違いは?

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1986年10月11日、アメリカのロナルド・レーガン大統領(左)と握手するミハイル・ゴルバチョフ(写真:Denis Paquin/REUTERS)

1991年12月、冷戦はソビエト連邦の崩壊によって幕を閉じた。世界中の多くの国が待ち望んでいた出来事だったが、ソ連の崩壊に恐れおののいていた国がある。

北朝鮮だ。自らも遠からず同じ運命をたどることになるのではないか。北朝鮮がそう恐れるのは、理由のないことではなかった。確かに、北朝鮮は今日まで体制の崩壊を免れてきた。しかし、1991年当時は体制を維持できるかどうか、極めて不確かな状況にあったのだ。

ソ連と親しかった北朝鮮

ソ連の崩壊は、ミハイル・ゴルバチョフ氏(1985年にソ連共産党書記長、1990年にソ連の初代大統領に就任)が進めた「ペレストロイカ」政策から始まった。ペレストロイカは「再構築」を意味する言葉だが、国を根本から変革する試みは結果的にソ連の崩壊を招き、世界秩序を「再構築」することになる。

本記事はNK News(北朝鮮ニュース)の翻訳記事です

ゴルバチョフ時代に市民の個人的、政治的自由は劇的に拡大したが、ソ連経済は破綻した。

1980年代を通してソ連と北朝鮮の関係が良好だったことは、あまり知られていない。北朝鮮政府は1982~1983年ごろ、イデオロギー上の理由からソ連政府に接近していく。当時、国家主席だった金日成氏が中国の「改革開放」路線に反発したためだ。だが、ゴルバチョフ時代の後半まで続いた北朝鮮とソ連の蜜月は、ペレストロイカによって終わりを迎える。ペレストロイカは、鄧小平氏による中国の改革開放よりも、はるかに改革的であることが明らかになってきたからだ。

ソ連の共産党支配に終止符を打つ決定的な出来事は、1990年3月14日に訪れる。共産党の指導的役割に関する条項が憲法から削除されたのだ。ちょうどこの頃、北朝鮮はもはや共産主義国でなくなったソ連から留学生を帰国させた(帰国命令に逆らい、逃亡した学生もいた)。

翌1991年7月にはワルシャワ条約機構(ソ連と東欧社会主義国による軍事同盟)が瓦解し、ソ連による東欧支配は終わりを迎えた。

そして、同年8月20日には、ソ連を構成する共和国の権限を強化する「新連邦条約」に調印する運びとなっていた。ことここに至って、ゴルバチョフ氏の政敵は反撃に出る。新連邦条約は1922年に締結された連邦結成条約を置き換え、ソ連の体制を変革するものだったからだ。

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