年内に予定されていたプーチン大統領の訪日が年明け以降に延期されてしまった。10月中旬に明らかになったこの延期は、ウクライナ問題の影響で日ロ関係が悪化してしまったことが原因だろう。この訪日延期によって、ロシアとの今後の平和条約交渉はどうなるのだろうか。今回はこの問題を考えていきたい。
言うまでもなく、日ロの交渉は苦難に満ちたものであり、長い時間をかけて少しずつ前進が図られてきたものだ。微妙に前進することもあれば、ズルズルと後退することもあった。例えるならば、急な上り坂で大きな荷物を載せた大八車を押し上げるようなものである。
今回、この大八車=「日ロ号」の押し上げられた高さで、交渉の進捗の歴史を見ていく。過去の日ロ交渉の過程を詳細に知っておくことで、これからの交渉を見る上での視座ができることだろう。なお日ロ間の合意事項はできるだけ外務省の資料に基づいて記述した。
原点は1956年の日ソ共同宣言
日ロ両国が戦争状態を終了させ、領土問題の解決について、中間的ではあったが、合意を達成したのは1956年の日ソ共同宣言だった。「歯舞、色丹島については平和条約が締結された後にソ連から日本へ引き渡される」と明記された。
その他の領土問題について共同宣言では直接の言及はなかったが、グロムイコ第一外務次官から松本俊一全権に送られた書簡では、「領土問題をも含む平和条約交渉を継続することに同意することを言明します」と明記されていた。ところがその後、ソ連は、日本が米国と安保条約を結んでいることを口実に領土問題について何も合意しなかったかのような態度を取るようになった。
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