「北方領土が返還されない」のは、なぜなのか 8月15日を終戦日と思い込む日本人
北方領土問題の根源は「ソ連軍との戦争終結の日」
1990年代初期、政権がソ連からロシアに移行する前後、北方領土を取材した事がある。
現在では稚内(わっかない)からサハリンまでフェリーがあり、羽田空港からもユジノサハリンスクまでの直行便もあるが、私が初めて北方領土に入った1990年当時は、新潟から飛行機を乗り継いで2泊3日もかかっていた。
東京‐新潟‐ハバロフスク‐ユジノサハリンスク-国後島(くなしりとう)のメンデレーエフ空港。機上にいる時間はトータルでわずか5時間ほどなのに、航空便の関係でハバロフスクとユジノサハリンスクでそれぞれ最低1泊はしなければならなかった。この2泊3日という時間に日本と北方領土の間に横たわる政治的距離を感じざるをえなかった。
が、ユジノサハリンスクから乗ったソ連製アントノフ26双発プロペラ機が着陸のため高度を下げた時、眼下に広がる厚い雲の間からは北海道の緑が見えた。地理的距離にすれば、知床(しれとこ)半島から国後島までは直線距離にして約25キロメートルしかなく、もし海がなければ歩いてでも行ける距離だ。
私自身、2度にわたって北方領土を取材し、主に択捉(えとろふ)と国後の島内をまわった。国後から択捉には国境警備隊の軍用ヘリで渡った。その時、1941年暮れ、ハワイ真珠湾攻撃のため連合艦隊の機動部隊が集結した単冠湾(ひとかっぷわん)上空を写真撮影は絶対にしないという条件で飛んでもらったが、私が行った時は波がなく鏡のような海面であった。択捉島の切り立つような断崖の所々から湾内に落ちる滝が数本見えて実に美しく、静寂を感じさせる光景であったのだ。
国後、択捉両島とも豊富な温泉資源があり、清涼な川の岸辺を少し掘れば温泉が出てくる。それを川水と混ぜ合わせて人間が入るのに適温となるように調整する。そのような自家製温泉には何度か入ったが、景色、空気とも実に清々しく心地の良いものであった。択捉島の博物館のような施設には茶碗や箸、汁椀などを含む日本時代の生活雑器などが展示されており、日本人の墓地やお寺、神社なども爆破されたような跡が残ったまま放置されていた。
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