「北方領土が返還されない」のは、なぜなのか 8月15日を終戦日と思い込む日本人
北海道の北に位置する歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後、択捉を巡って日本とソ連(後にロシア)との間で争われてきた領土問題は戦後日本のエポックでありながらも、戦後70年の間、一般の日本人の間ではあまり関心が持たれていない。その大きな原因のひとつは、戦争終結の日に関するわれわれ日本人の常識にあると言えそうだ。
ソ連に北海道占領をあきらめさせた占守島の自衛戦
日本人のほとんどは、1945年8月15日に戦争が終わったと信じ込んでいた。が、前回記事でも触れたが、この日はあくまでも天皇がポツダム宣言を受諾した事を国民に知らしめ、特に「死して虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と徹底的に教育されてきた大日本帝国陸海軍将兵に武器を置き、粛々と連合軍の武装解除に応じるよう、大元帥として命令を下すという要素もあった。したがって多くの日本人の認識とは違ってあくまでも休戦を宣言した日であったのだ。
正式に戦闘状態が終結したのは1945年9月2日の降伏調印からである。そのため、日本人の意識の中では8月15日から9月2日までの間、「空白の18日間」が生じた。この間に現在まさにビビットな問題となっている深刻な問題が引き起こされた。それはソ連による千島列島の占領に至るまでの一連の軍事行動である。
ソ連軍はまさにその直後、8月16日に当時日本領であった南樺太(南サハリン)に攻め入ってきたのである。日本軍は自衛のために頑強な抵抗を見せたが、激戦の末ついに8月18日、ソ連軍に降伏を余儀なくされた。それでも日本軍は粘り強い抵抗を続けたため、ソ連がやっとサハリン全土を占領したのは8月25日になっていた。
同じく、8月18日未明にはカムチャツカ半島の砲台から占守島(しむしゅとう)に向けての砲撃を開始。千島列島占領作戦が始まった。大挙上陸して来たソ連軍に対して占守島守備隊が自衛のために防戦。激しい戦闘となった。守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌を持っていたのである。これをソ連軍上陸地帯に集中させ、ソ連軍に戦死傷者3000名以上という大損害を与えたのだ。これは満州、樺太を含めた対ソ連戦では日本軍最大の勝利となった。
8月21日に日本軍守備隊とソ連軍の間で停戦交渉が成立し、この島での戦闘は終了した。しかし、その後もソ連軍は千島列島伝いに南下を続け、北千島南端の得撫島(うるっぷとう)までの占領を完了したのは8月31日の事である。
北千島で行われた日本軍の激しい抵抗により、ソ連の南下作戦は遅れてしまい、戦略目標に重大な狂いが生じた。それはソ連軍による北海道占領作戦であった。スターリンは当時のトルーマン米大統領に対して北海道の北半分にソ連軍が入り、日本軍の降伏を受けたいという要求を続けていた。スターリンは釧路と留萌(るもい)を結ぶ線で北海道を分割し、戦後の日本占領に加わるという戦略を立てていたのだ。
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