日本から見てウクライナはロシアのかなたにある国だ。西欧諸国のように楽しい旅行先でもない。地理的にも、心理的にも遠く離れており、そこで激しい紛争が起こっていても日本ではあまり注目されることはない。
しかし、ウクライナは西側諸国とロシアのパワーが激突する現場だ。西側の一員である日本としても、そのことを理解しておかないと世界情勢を読み違える。
ウクライナは、ソ連の崩壊前はその一部であり、民族的にも経済的にも西欧よりロシアに近かった。しかし、冷戦終了後ウクライナが西側との関係強化を目指すようになり、ウクライナ国内では親西側勢力と親ロシア勢力のバランスに変化が生じ、政治が混乱した。その結果として現在の紛争へと発展している。まずその経緯を振り返っておこう。
親ロシア派と親西派の激突
2004年11月のウクライナ大統領選挙では、親ロシア派のヤヌコーヴィチが当選している。ところが、選挙に不正があったため再選挙となり、翌月には西側との関係強化を重視するユシチェンコが大統領となった。この逆転劇は「オレンジ革命」と呼ばれた。
しかし、ユシチェンコの連立政権は安定せず、2010年3月の大統領選挙ではヤヌコーヴィチが再び当選し、そのまま大統領に就任した。
ユシチェンコ政権当時、ウクライナ政府とEUは「連合協定」締結にあと一歩のところまで来ていた。「連合協定」とは、EUに加盟を申請する国が準備のためにEUと結ぶ予備協定である。
ウクライナの西側への傾斜を止めたかったヤヌコーヴィチ元大統領は2013年11月、EUとの交渉プロセスを停止。親西側勢力はこれに強く反発して大規模な反政府デモを起こし、翌2014年2月18日から20日にかけて100名以上の死者を出す激しい衝突に発展し、ヤヌコーヴィチ元大統領は首都キエフから逃亡した。
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